検見川聖書バプテスト教会
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  アレオパゴスの説教  

2007年10月7日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:使徒17章16〜34節

[16]さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 [17]そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。 [18]エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。 [19]そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。 [20]私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」 [21]アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。 [22]そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。 [23]私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。 [24]この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 [25]また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 [26]神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。 [27]これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 [28]私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。 [29]そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 [30]神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 [31]なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」 [32]死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。 [33]こうして、パウロは彼らの中から出て行った。 [34]しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

説教要旨

古代オリンピック発祥の地であり、プラトンなどの哲学者たちが活躍した場所でもあるアテネ。新約聖書の時代、伝道者パウロはアクロポリスの北西にあるアレオパゴス(「アレスの丘」の意/裁判所など主要な行政機関が置かれていた場所)において、教養あるアテネの人々に対して神のことばを語りました。

まず導入(22、23節)において、パウロは聞く人たちとの接点を持とうと努めています。ここで注目したいのは、パウロは異教に対して絶対的拒絶をしていないという点です。彼は、彼らの信仰を「あらゆる点から見て」と客観的に観察した上で、「宗教心にあつい」と評価しているのです。そして彼らにとっては、宗教的に感心の高い「知られない神に」(まだ名を知らない神々にも感謝を怠らないためのもの)と刻まれた「祭壇」を引き合いに出して、彼らの興味を引き出しているのです。相手が異教徒であっても、全否定しない、評価できる点を見つけて褒める、という伝道者パウロの基本姿勢がここに見られます。

次に本論(24〜29節)では、まことの神について語っています。まことの神とは、被造物から養われ、助けを必要とするような存在ではないこと、むしろ世界に生きるすべての人は、この神からすべての必要を供給される存在であるという点をあげて、創造主なる神と偶像との違いを論証しています。神の実態の把握は、物で作った偶像やその祭壇を拝むことでは出来ない、と強く訴えかけているのです(24、25節)。さらに、人類の起源は神にあること(26節a)、神は歴史の支配者であること(26節b)を述べつつ、宗教心は評価できるが、信仰の対象が的外れだ、とずばり指摘しているのです。

結論(30、31節)において、すべての人が神の審きと無関係なのではなく、悔い改めることは神の御意思なのだと人々に決断を迫っています。その理由として、キリストの復活において“神の義”(罪を見過ごされない義・人を救おうとされる義)が現されたからで、偶像礼拝という誤った神への応答をする無知の時代は過ぎ去ったのだ、と結論づけています。

この説教を聴いたアテネの人々はどんな反応を示したでしょうか。彼らは、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、このことについては、またいつか聞くことにしよう。」(32節)と、福音を受け入れない頑なな態度を示しました。大伝道者パウロが語ったにしては予想外の反応です。しかし現代においても、福音が語られる場における人々の反応はアテネの人々と同様なのです。知的好奇心を満たす話には興味を示しても、理性で受け止められない信仰の核心に触れる話(ex.キリストの復活)は馬鹿らしいと思って、心を閉ざしてしまうのが、神に敵対している人間がとる態度なのです。一方で、まことの神を信仰している私たちは福音に対してどのような態度をとっているでしょうか。十字架のことばにのみ神の知恵と力を見出しているならば幸いです。

 
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