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  らい病人のいやしに見る救いの条件  

2007年9月16日(日) 礼拝説教要旨
説教者:疋田 健次(神学生)

聖書箇所:マタイの福音書8章1〜3節

[1]イエスが山から降りて来られると、多くの群集がイエスに従った。 [2]すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」 [3]イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

説教要旨

聖書に記されている「らい病」という言葉は、現在では差別用語とされる場合があるので、新改訳聖書第3版においては、ヘブル語の原語である「ツァラアト」という言葉が使われています。表現上の問題は多々ありますが、この病が示していたのは「社会との断絶」でした。

当時のユダヤ社会において、らい病を患う人は、肉体的にも、宗教的にも汚れた存在として扱われていました。らい病患者は律法によって「町の外に住まなければならない」と規定されており、その病が癒えないかぎり、町の中に戻ることはできませんでした。

さて、マタイ5〜7章に記されている「山上の説教」を終えられたイエス様が山から降りてこられると、そこへひとりのらい病人がやって来ます。このらい病人のとった行動をとおして、私たちはそこに、「人間が罪から救われるための条件」を見ることができます。

<御言葉を聞き、イエス様のみもとに来る>
イエス様は「山上の説教」において、人々に「権威ある者」のように教えられた様子が記されています(7:28〜29)。イエス様の御言葉を聞いた人々は、力あるその教えに驚いていました。それは、らい病を患っていた彼も同様でした。彼は御言葉をとおして「この御方なら私の病を癒してくれるかもしれない」と考えるに至り、イエス様のみもとにやって来たのです。

<イエス様の権威を認め、その御前にひれ伏す>
イエス様のみもとに来たらい病人は、その御前にひれ伏します。この「ひれ伏す」という言葉には「拝む」「礼拝する」という意味があります。また、彼はイエス様に向かって「主よ」と呼びかけています。「主」とはユダヤ人たちにとって、創造主なる神を指して用いる特別な呼称でした。これらのことからわかることは、彼がイエス様の絶対的な権威、つまりイエス・キリストは神と等しい存在なのだということを認めていたという事実です。

<自分自身の汚れを告白し、きよめられることを願う>
らい病人は、イエス様に向かって、「お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言います。この言葉からわかることは、彼は自分自身が汚れた者であることを自ら認めていたということです。彼は、周りの人々に指摘されるまでもなく、自らがどんなに罪深い、汚れた存在であるかをよくわかっていたのです。彼は自分自身の罪・汚れをはっきりと認めて告白し、その上で、イエス様にきよめられることを願ったのです。

<らい病の癒し=罪のきよめ>
らい病人のとった行動・心の姿勢を良しと見られたイエス様は御手をさしのべ、その病を一瞬で癒してくださいます。病が癒されたことによって、彼はもともと暮らしていた町の中へ、本来自分がいるべき所へ戻ることができたのです。同様に、すべての人間は本来自分がいるべき所、神のみもとに戻り、救いを受けるためには、イエス様の力に頼る必要があります。らい病人が病を癒してもらうためにとった行動は、私たちすべての人間が、らい病以上に恐ろしい「罪」という病から救われるための条件であったことを覚えましょう。

 
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