検見川聖書バプテスト教会
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  信仰の人々として死ぬ意義  

2007年9月2日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ヘブル人への手紙11章13〜16節

[13]これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 [14]彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 [15]もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 [16]しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

説教要旨

ある大手の生命保険会社が行った「震災に関するアンケート結果」が毎日新聞(9月1日・防災の日)に掲載されていました。それによると、「将来大地震が起きる」と答えた人は92%に達し、度重なる地震などの発生で不安が高まっていることがわかりました。一方で「震災対策は何もしていない」という人が50%以上に上り、備えは万全ではないこともわかりました。このような意識の根底には、いつか起こるとわかっていても、どこかで“自分は大丈夫”という思いがあるのではないでしょうか。

さて、このような地震に関する意識は、そっくりそのまま「死」に対する意識にも当てはまると思います。アンケートを出せば「将来必ず死ぬ」と全員が答えるでしょう。しかし、今死への備えが出来ているかと問われれば、一体どれくらいの人たちが「出来ている」と答えるでしょうか。

現代のように科学技術が進歩し、情報化された社会においても、依然として死は謎に包まれていると考えられています。死後のことは誰もわからないのだから準備のしようがない、と言う人もいるでしょう。また、ギリシャの哲学者エピクロスが「死以上のものに対してならば防御の手立てもあるなり、しからずも死に対してのみ、われわれは無防備の都市に住む」と述べているように、防ぎようのないことだから考えるだけ無駄だ、と言う人もいるでしょう。

しかし、だからといって死を考えないで良いはずありません。死は全ての人に訪れるものです。人が死後の備えをしていないならば、死が突然自分の身を襲うとき大いに翻弄されるのです。ですから、死を考えないことは、何の解決にもならないのです。

聖書は、死後に人間が直面する事態を明らかにしています。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20章12〜15節)。死んだ人は審判者である神の前に立たされ、永遠のさばきの宣告を受ける、と聖書は断言しています。大変恐ろしいことですが、このような結末が待っているからこそ、人は死後のために十分な備えをしなければならないのです。

それでは、私たちが死後のためにできる備えとは何でしょうか。それは、悔いのない楽しい人生を送ることや人生の成功者となることではなく、心の内にある罪の問題を解決することだと聖書は教えています。具体的には、創造主である神の前に自らが罪人であることを素直に認め、私たちの罪を贖うためにイエス・キリストが十字架において死んでくださり、三日目に復活されたことを信じることです。この信仰を持つ人々は、死後における神のさばきに会うことがないばかりか、永遠のいのちの約束が与えられているという点でも、死後の備えが出来ている人々なのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6章23節)

あなたは今、死と向き合い、来世への希望をもって今を生きているでしょうか。預言者アモスが、「あなたはあなたの神主に会う備えをせよ」(アモス書4章12節)と勧めていることばに耳を傾け、今成すべき死への備えを十分にする者でありたいと思います。そして、キリストにある希望を携えて生きようではありませんか。

 
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