検見川聖書バプテスト教会
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  姦淫してはならない  

2007年7月29日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章27〜30節

[27]『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [28]しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 [29]もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 [30]もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

説教要旨

六つの「反対命題」の二つ目は「姦淫」に関する規定です。ここにおいてイエス様は十戒の第七戒「姦淫してはならない」の真意を明らかにしています。

「姦淫」とは何か
姦淫とは、辞書によれば「男女が不倫な肉体関係を結ぶこと」と定義されています。つまり、社会的に承認されない関係(主に夫婦以外)の男女が性的関係を結ぶこと、それが「姦淫」なのです。

しかし、具体的にどんな関係が「姦淫」に該当するかについては、その時代や国ごとの社会通念によって大きく異なるのです。−イスラム圏の国々や韓国では、姦淫(不倫)は処罰の対象とされるが、日本ではそうではない。−

それでは、普遍的かつ絶対的な基準が示されている聖書は何と言っているのでしょうか。

イエス様による「姦淫」規定の真意
イエス様はこう断言されます。「だれでも情欲(むさぼりの思い)を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫(その女)を犯したのです。」(28節)。つまり、「姦淫」とは単に行いの問題ではなく“心の問題”なのだ、とイエス様は言うのです。

「情欲を抱いて女を見」た時点で、それは行為の伴う姦淫と何ら変わらない。このように言うことで、イエス様はこの世の法律が規定していない、いや出来ない“心の中の思い”をも罪として規定されたのです。大変衝撃的で厳しいことばですが、聞いている人々に「姦淫」についての誤った認識を改めさせようとの強い意図が感じ取れます。私たちキリスト者も当時のパリサイ人のように、「私は浮気も不倫もしていない」と胸をはることができたとしても、この主の教えの前に立つ時、自分の汚れた心があらわにされてしまうのです。みなさんはいかがでしょうか。

イエス様の勧め
以上のことから、「情欲」が姦淫であることを明らかにされたイエス様は、つまずきの原因(種)となるものが「これだけはとっておきたい」と思えるもの−習慣・友達・趣味・仕事−であったとしても、厳しい態度で臨み、断固として徹底的に取り除くようにと勧めておられます。「もし、あなたの右の目(手)が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」(29節a、30節a)その理由は、姦淫の代償があまりにも大きいからです。たいしたことはないと考えていても、「姦淫」には性の秩序を破壊し、私たちの家庭や社会を破壊し、果ては私たち自身をも破滅させる力があるのです。

さらにこの罪を持ち続けるならば、来世における燃える「ゲヘナ」のさばきが待っています。「からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(29節b、30節b)。ですから、私たちはイエス様が言われるとおり、心の中の「情欲」についても、恐るべき罪として認識しなければならないのです。



最後に考えてみましょう。「姦淫」が内面における心の状態である時、私は関係ないと言える人がどこにいるでしょうか。その罪に蓋をして、外側を装うことをやめましょう。そして主の前に大胆に告白し、悔い改めようではありませんか。

 
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