検見川聖書バプテスト教会
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  人を殺してはならない  

2007年7月22日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章21〜26節

[21]昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [22]しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 [23]だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 [24]供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 [25]あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 [26]まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

説教要旨

六つの「反対命題」の一つ目は「殺人」に関する規定です。ここにおいてイエス様は、旧約聖書の律法に関する当時の解釈と対比させて、律法の本当の意味を明らかにしています。

「殺人」とは何か
まず、殺人とは何かについて考えてみましょう。現代の日本の法律では「故意に他人を殺すことによって成立する罪」(刑法第199条『殺人罪』)と定義されているとおり、あくまでも“行為”に限定して考えられているのです。ですから、肉体的に人を殺めなければ、基本的には「殺人罪」に問われることはありません。しかし、日本での年間の自殺者が三万人以上いる現実を覚えるときに、実際には「行為」以外の殺人(感情やことばのレベルでの人の破壊)が行われている、と言えるのではないでしょうか。

イエス様による「殺人」規定の真意
「殺人」を行為に限定して考えるとき、ある意味で心の中が野放し状態になります。心の中にいつまでも忘れない「憤り」や「敵意」が残っていても、また人を傷つけ、軽蔑するようなことばを発しても、「たいしたことではない」と片付けてしまうのです。そのような人々に、イエス様は大変厳しいことばを言われます。「兄弟に向って腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22節)。

ここでイエス様が明らかにされたことは、殺人とは心の問題であること、そして心とことばにおける殺人(人の破壊)は最高の重罪に値することでした。神様はそのような心の中の罪も見過ごされないお方です。ですから、「人を殺してはならない」という律法の真意を理解していないことは大変恐ろしい結果を自らにもたらすのです。文字に捉われたままの人が「投げ込まれる」と言われる「ゲヘナ」とは、神から永遠に見捨てられてしまう場所のことです。

今すぐにすべきこと
神礼拝の前に人間関係のこじれを修復する努力をするようにと、イエス様は勧めます。「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら・・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」(23〜24節)。「あなたを告訴する者とは・・・早く仲良くなりなさい。・・・」(25〜26節)。最も身近な人々との間にある“わだかまり”を解決することは最優先課題です。後で後悔しないためにも、問題は早急に解決すべきなのです。私たちは、この勧めに従うことによって、他者(家族・兄姉)を破壊するのではなく、生かすことが本当の意味でできるようになるのです。



最後に考えてください。あなたは、心やことばの殺人も見逃さず、恐るべき罪としてさばかれる神の前に立つ準備ができているでしょうか。もし、まだならば、これまでの人生を振り返って、人を破壊してきた数々のことを思い起こしつつ、神に悔い改め、律法の真意に目覚める者になろうではありませんか。

 
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