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  パリサイ人の義にまさる義−文字と精神  

2007年7月15日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章21〜48節

[21]昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [22]しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 [23]だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 [24]供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 [25]あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 [26]まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。 [27]『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [28]しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 [29]もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 [30]もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。 [31]また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。 [32]しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。[33] さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。[34] しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。[35] 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。[36] あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。[37] だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 [38]『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [39]しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 [40]あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 [41]あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 [42]求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。 [43]『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [44]しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 [45]それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 [46]自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 [47]また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 [48]だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

説教要旨

この段落(21〜48節)では、イエス様から天の御国に入ることが出来ないと断言された「パリサイ人の義」の特徴が、六つの実例(殺人・姦淫・離婚・誓い・復讐・愛)によって、わかりやすく説明されています。今回は、この段落を総括的に考えてみたいと思います。

文字に捉われていたパリサイ人たち
イエス様は、具体的な実例を通して「律法学者とパリサイ人」の誤りを指摘されています。その誤りとは、彼らの性格の真面目さや厳格な生活態度ではなく、律法(神のことば)の解釈にありました。それは三つの点から言えます。

第一に、律法の精神を除外していたこと。彼らは、律法の文字だけに注意を集中させ、その背後にある精神(神の愛による意図)を見失っていたのです。まさに、「律法読みの律法知らず」です。そのような彼らには、信仰者の基本姿勢であるはずの“神の御心をまず求める”という姿勢は見出せません。

第二に、律法を守ることを表面的な面だけで考えていたこと。神の御心を理解できない彼らが関心を払っていたことは、表面的な行為でした。すでに心と行為が切り離されているので、行えば行うほどに、心の中に悪い感情(悪意・嫉妬・ねたみ)が芽を出してくるのです。このような人の生活は、常に神ではなく人を意識したものになり、形式的、表面的なものとなるのです。

第三に、律法を守ることを消極的な面だけで考えていたこと。彼らは、「殺すな」「姦淫するな」等の戒めを破らなければ、万事良しと考えていたのです。本来ならば律法は祝福の手段であるはずなのに、彼らのように受け止めてしまうと、信仰生活が喜びや感謝と無縁になります。さらに日々の生活は非常に窮屈になっていくのです。

以上のことから、この段落で示されているイエス様の意図は、人々の心を律法学者やパリサイ人の誤った解釈から、本来向けるべき“律法の精神(神の御心)”に向けさせようとしていると言えるのです。

私たちは精神(神の御心)を見失っていないか
一方で、現代の私たちにも同様の傾向があるとは言えないでしょうか。神のことばを信じていると言いながら、実際には文字に捉われ、その精神を見失っているキリスト者が大勢いるように思えます。

聖書を学び続けても、誤った理解を正せないので、神様の御心を知ることが出来ません。しかも、常に神の御心よりも自分の考えが優先されるので、普段の生活において神様の御心が反映されないのです。

もし、自らに当てはまる点があるならば、この段落において示されているイエス様のことばに対して、真剣に耳を傾けようではありませんか。そして律法の文字ではなく、精神を見出す者になろうではありませんか。そこにこそ真の自由があり、神の祝福があるのです。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Uコリント3章6節)

 
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