検見川聖書バプテスト教会
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  あなたはどこにいるのか  

2007年7月1日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:創世記3章8〜13節

[8]そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 [9]神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 [10]彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 [11]すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」 [12]人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」 [13]そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

説教要旨

3章1〜7節では、「誘惑者の声に導かれて」と題して、蛇の誘惑により神を神とせず、自分(の判断)を神とし、取り返しのつかない事態を招いてしまったアダムとエバについてみました。彼らが得たものは、惨めな裸の者であることの自覚と神との関係の断絶ゆえの霊的死の状態でした。今日の箇所では、罪を犯した直後の人の態度と、この人に対する神様の関わりについて述べられています。

罪を犯した直後の人の態度について、三つの態度がみられます。

第一の態度は、以前のように堂々と神の前に出られなくなったこと。8節の「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」との態度には、罪を犯したことによるうしろめたさが感じられます。

第二の態度は、罪のはぐらかしです。9節の神の呼びかけに対して、「私は裸なので、恐れて、隠れました。」(10節)と応じていますが、犯した罪(約束を破ったこと)には一切触れていません。罪を認めるどころか、言い訳(裸であること)を言って罪をはぐらかしているのです。

第三の態度は、責任転嫁です。11節の神の問いかけに対するアダムの返事は、自分の罪を素直に認めるものではなく、責任を妻エバと神になすりつけるものでした。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(12節)。かつて、「私の骨からの骨、私の肉からの肉」(2章23節)というラブソングまでささげて、その存在を心から喜んでいた妻に対して、ここでは「この女」と冷たく突き放して、責任転嫁しているのです。自己の責任を回避するためだったらどんな手でも使う卑怯な態度です。エバの態度も同様でした(13節)。

一方で罪を犯したアダムとエバに神はどのように関わってくださったのでしょうか。三つあげられます。

第一の関わりは、なおも心配してくださること。「あなたはどこにいるのか」(9節)との呼びかけは、責め、告発するものではなく、本来あるべきところから落ちてしまった人を心配することばです。

第二の関わりは、問題の原因を考えさせてくださるということ。「あなたが裸であるのを誰があなたに教えたのか。」(11節)。何故こうなってしまったかを考えさせることによって、自らの問題として受け止められるようにしてくださるのです。

第三の関わりは、罪を犯した結果の深刻さを自覚させてくださるということ。「あなたはいったいなんということをしたのか」(13節a)自分たちがしたことの結果にまだ気付いていない、いや認めようとしないエバに、事の重大さを認識させてくださるのです。聖書の神は、あくまでも自発的に悔い改めることを求めておられるお方なのです。

現代においても、「あなたはどこにいるのか」との神の呼びかけは、いろいろなかたちで聞くことができます。私たちの人生を振う出来事(病気・事故・災害・環境・人間関係のトラブルなど)を通して、そして特にイエス・キリストを通して(ヘブル1章1〜2節)、神ははっきりと呼びかけておられるのです。さて、私たちは、この神の呼びかけに対して、どのような態度を取るのでしょうか。

 
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