検見川聖書バプテスト教会
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  パリサイ人の義にまさる義  

2007年6月24日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章20節

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

説教要旨

前回は、イエス様の時代の人々(現代の私たちも)が、20節のイエス様のことばに大きな衝撃を受け、深い絶望感に襲われたであろうことについてお話しました。では、ここでイエス様が「パリサイ人にまさる義」として提示している新しい「義」とは、どのようなものなのでしょうか。パリサイ人以上の行いが要求されているのか。「パリサイ人の義」と比較しながら考えてみたいと思います。

この点を鮮やかに語っているのが、ルカの福音書18章9〜14節のたとえです。当時「立派な人」−「義人」と見られていたパリサイ人の祈りと、逆に「どうしようもない人」−「罪人」と見られていた取税人の祈りが対比して記されています。パリサイ人は祈りの中で、取税人を見下げ、自分の正しい生活を誇っています。彼は、神の前に自分の正しさを持ち出すことによって、自らを義としていたのです(11、12節)。ここに「行い」によって自らを義とする者の持つ、限界が明らかにされているのです。すなわち、自分の正しさを現わし、神に受け入れて頂くために、行いを追求しているにもかかわらず、内面は汚れた(罪深い)ままであるという事実です。ですから、人の目から見た「立派さ」は、神が義と認める(天の御国に入る)条件とは、無関係だと言えるのです。

一方で(イエス様が義と認めた)取税人は、ただ自分がしてきた愚かで罪深い生活を悲しみ、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(13節)と言っています。神の前に何も持ち出すことができない自分を正直に告白することによって、自らのうちに一点の正しさもないことを素直に認め、神のあわれみにすがっているのです。ここに「パリサイ人にまさる義」を持つ人の望みがあるのです。イエス様ご自身、八つの幸いの冒頭で「心の貧しい者は幸いです。」(マタイ5章3節)と語り、パウロも「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章24節)と告白していますが、自らのうちに絶望を見出す者のみが、神のうちに真の希望を見出すに至るのです。神の前に自分の無力さを認め、そのあわれみにすがる者を、神の側で喜んで見出しくださり、天の御国に入るにふさわしい者と認めてくださるのです。

最後にご一緒に考えたいことがあります。それは、私たち自身はどのようにして自らの正しさを現わそうとしているか、ということです。信仰を持つ以前の私たちが追い求めていたのは、「パリサイ人の義」ではなかったでしょうか。もし、この義を今でも追い求めているとしたら、私たちは天の御国に入るにふさわしい者ではありません。パリサイ人のようにではなく、取税人のように、ひたすらに神のあわれみにすがる者として主の前に立つ者となりましょう。そうすることによって「パリサイ人の義にまさる義」が与えられるのです。詩篇の作者は自身の体験から証しします。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇17節)

 
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