検見川聖書バプテスト教会
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  パリサイ人の義  

2007年6月17日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章20節

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

説教要旨

自分が「律法を成就」するために来たのだと語ってきたイエス様は(17、18節)、弟子たちに対し、神の戒めに真剣に向わなければと教え(19節)、続いて弟子たちの「義」が、当時の“宗教的な”人々である「律法学者やパリサイ人」のそれにまさるものであることを、明らかにされています。

律法学者・パリサイ人とは、どのような人たちであったのでしょうか。第一に、“とても真面目な人たち”でした。彼らは、どうしたら神の前に正しくあることができるか、を知るために、律法(旧約聖書)をよく学び、その研究に心血を注いだのです。彼らの多くは勤勉で誠実な性格の持ち主であり、真理の探究者でした。第二に、“非常に厳格な人たち”でした。彼らの律法に対する姿勢は、ゆるいものではなく、厳格(不正・怠慢・ごまかし・失策などを全くゆるさない厳しい態度の意)そのものでした。この厳格さは、律法に「先祖達の言い伝え」を加え沢山の戒めを守ろうとした点にも表れています。彼らにとっては、「今日は都合が悪いので、安息日を守れません」ということは、絶対に有り得ないことでした。自らの都合を神のことばに優先させない強い意志を持った人たちだったのです。第三に、“実践する人たち”でした。彼らは、よく祈り、断食(週2回も)し、貧しい人たちへ施しをし、あらゆるものの十分の一をきちんとささげていました。ことばと行動が伴う生き方をしていたのです。それゆえに、「律法学者やパリサイ人」は、当時の人々から「立派な人」「傑出した人」と見られ、非常に尊敬されていたのでした。「義人」と言えば、パリサイ人だと誰もが考えていたことでしょう。

この「律法学者やパリサイ人」によって表された「義」とは、戒めを守り行うことによって現わされていました。そして、当時の人々は、彼らのように、「模範的に生きられたら」、「誠実であったら」、「行いが伴ったら」、「素晴らしい祈りができたら」と考え目標にしていたのです。そして、彼らと同じように行うことで、神に受け入れていただけると心から信じていたのです。

しかし、イエス様は全く異なる見解を示されたのです。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(20節)。

この衝撃的なイエス様の言葉が当時の人々に突きつけた事実は、神様の基準、すなわち天国に入るための条件というハードルは、恐ろしく高いということでした(ヤコブ2章8〜11節)。イエス様から見れば、律法学者やパリサイ人の正しさは天の御国に入るための「義」の基準に届かないものだったのです(マタイ23章13〜15節)。この神の基準に届かない者は例外なく「のろわれた者」とみなされ、永遠の刑罰が待っていると聖書は証言します(同25章46節)。「そんなこと言われたら、いったい誰が天国に入れるのか。」「我々は絶望する以外にないのか。」この希望のない悲痛の叫びは、当時の人々のみならず私たちの叫びではないでしょうか。

 
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