検見川聖書バプテスト教会
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  神の国で何と呼ばれたいか  

2007年6月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章19節

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

説教要旨

前回の17、18節では、律法すなわち“旧約聖書に対するイエス様の態度(全てを信じ、その有効性を認め、ご自身が成就すること)”が明らかにされました。今日の箇所では、“聖書に対して私たちがとるべき態度”が示されています。

まず前半では、神の国で最低の評価を受ける人について述べられています。「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」(19節a)。「最も小さい者」ということばは、「問題にならないくらい小さい」とか、「非常につまらない」などの意味があります。これは、人生で何事も成し得なかった人が受ける評価ではなく、神の「戒め」を軽んじ、不誠実な態度を取った人が、このような評価を受ける、とイエス様は言われるのです。

一方後半では、神の国で最高の評価を受ける人について述べられています。「しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(19節b)。「偉大な者」ということばは、卓越した存在などの意味があります。一般的には、この世において何か特別な偉業を成した人が受ける評価です。しかし、神の国においては、神の「戒め」を重んじ、誠実な態度を取った人が、このような評価を受けるのだ、とイエス様は言われるのです。ここに、この世とは異なる絶対的な評価基準がはっきりと示されています。

さて、神の「戒め」に対する態度如何によって、こんなにも結果が違うということは、私たちが神の「戒め」を厳格に守ることの理由になります。しかも、それを表面的、形式的に守ることだけに固執するのは、イエス様が痛烈に批判されたパリサイ人や律法学者とそう変らないことにもなります。私たちは一体どのように「戒め」を守るべきなのでしょうか・・・。

私たちが、神の「戒め」を「守り、それを守るように教える」場合に、見失ってはならないことは、一つひとつの戒めの背後にある神ご自身のご意思なのです。戒めの背後には、神の人間に対する特別な考えがあることを認識すべきです。それは、人間の考えや行動を縛りつけようとするような意地悪な意思ではなく、人間に天の祝福を与えようとの深い愛と憐れみに根差したご意思なのです。誘惑者サタン(旧約聖書の創世記3章に登場)は、神を信じる者の心に、神は人を縛るお方という印象を与えつつ、神のことば通りにしなくても大丈夫!と錯覚させようと常に働きかけてきます。その目的は神のことばの背後にある神の意思を見失わせるところにあるのです。そして主の弟子が、神の「戒め」を軽んじ、不誠実な態度を取るようになるのを願っているのです。

最後に考えてみましょう。今のあなたは、神の「戒め」に対してどのような態度をとっているでしょうか。軽んじているか、重んじているか、誠実か、不誠実か。各々、神の「戒め」に対する態度を顧みてはいかがでしょうか。

 
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