検見川聖書バプテスト教会
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  誘惑者の声に導かれて  

2007年6月3日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:創世記3章1〜7節

[1]さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 [2]女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 [3]しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」 [4]そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 [5]あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 [6]そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 [7]このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

説教要旨

創世記3章には、サタンが「蛇」の姿をとり誘惑者として登場します。この誘惑者の特徴は、見た目で相手を信用させるが、中身は「狡猾」だという点です。騙しやすい相手(女)に狙いを定め、外側の輝き(「蛇」−原語の意味は“輝き”)で相手を信用させ、巧みな話術でいつの間にか相手を自分のペースに引き込むのです。このような誘惑者の姿は現代社会にも多く見られます。

誘惑者はまず、神のことばに対して不信感を抱かせます。蛇を誘惑者だと知らない女に、「あなたがたは園のどんな木からも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(1節)と、神があたかも厳しく人を束縛する存在であるかのような印象を与えるのです。誘惑者に対して無防備な女は、この蛇のことばに「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」(2節)と、素直に反応して、大きな過ちを犯してしまいます。惑わされた女は、神が「食べてはならない」(2章17節)と断言されたことばに「触れてもいけない」(3章3節)を加え、断定的な意味での「必ず死ぬ」(2章17節)を死なない可能性が含まれている意味での「死ぬといけない」(3章3節)とし、割り引いてしまったのです。

女の神への信頼が揺らぎはじめたのを見るや否や、蛇は態度を一変させ、これまでの柔らかな口調ではなく威圧的な口調で、「あなたがたは決して死にません」(4節)と断言してきたのです。サタンは神のことばを完全否定することで、この世に絶対の権威などないと思い込ませ、何の根拠も無いにもかかわらず確信をもって断言してくるのです。そして女は神のことばの権威を疑い、御言葉どおりにしなくても良いではないか、と錯覚してしまいました。そして、女は神の戒め(2章16〜17節)を破るに至ります。

サタンからの「あなたがたの目が開け・・・神のようになる」(5節)との誘惑は魅力的なものでした。自分が神となり、すべてを思い通りにしたいという人間の欲望を突いてきたからです。また「善悪を知るようになる」(5節)とは善悪の判断基準が、創造主にして絶対的権威を持つ神にではなく、被造物に過ぎないひとりの人間に置かれることを意味します。善悪の判断基準を持つことによって、自分中心に世界が動くような錯覚を味わう、これまた一見魅力的な誘惑です。この誘惑に負け、神のことばを守らず、欲望に導かれて「ふたり」は禁断の実を食べてしまったのです。禁断の木の実を食べた結果、彼らはサタンの言う通りに目が開かれました(7節)。しかし、彼らが見たものは惨めでしかない「裸である」自分の姿と、神との間に溝が出来た結果の「恥」すなわち「罪」の自覚だったのです。

私たちも女を笑えません。神のことばに対する絶対的信頼は揺らいでいませんか。神を信頼せず、自分の思い通りにしたいと自分を神としていないでしょうか。サタンの誘惑の声に惑わされないよう、御言葉に堅く立ち、主に従おうではありませんか。

 
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