検見川聖書バプテスト教会
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  神の栄光のために輝く  

2007年5月13日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章14〜16節

[14]あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。 [15]また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいえる人々全部を照らします。 [16]このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあながたの父をあがめるようにしなさい。

説教要旨

私たちが普段、自分が「輝いている」と感じるのはどのような時でしょうか。人によって意見が異なるでしょうが、一般的には自分の思い通りの人生を生きている時だと思います。健康に恵まれ、仕事や家庭も順調で、経済的にも満たされている状態。当然、外面的な条件が整っていることが不可欠です。

一方で、イエス様が「塩」と「光」のたとえ(13、14節)によって明らかにされたのは、全く正反対の原則でした。その原則とは、真に「輝いている」人とは外面的な条件によってではなく、内面的な条件(神に対する心の態度)による、ということでした。今日の箇所においては、このように「光」と認められた人々に対して、さらに光を「輝かせ」るようにとの命令が記されています。

まず、明らかにされているのは、14節「山の上にある町は隠れることができ」ないという事実です。このことばが意味していることは、御国の民(以下「キリスト者」)は、「山の上の町」がそうであるように、人の目に明らかな存在であり、そうであるがゆえに周囲から注目を浴びるのは避けられない、ということなのです。確かに「光」としての性質を持っているならば、考え方と生き方においてこの世と調子を合わせ(られ)ないはずです。そのような意味で、キリスト者が「山の上にある町」であることは否定できない事実だと言えるのです。

次に、明らかにされていることは、15節前半「あかりをつけて、それを枡の下に置く者は」いないという常識です。「あかり」の用途は何かを照らす以外にはありません。ですから、最初から隠すつもりで「あかり」をつけるということは無意味なのです。正しい置き場である「燭台の上に置」(15節b)くときにのみ、「家にいる人々全部を照ら」(15c)すというあかり本来の機能が十分に発揮されるのです。では、私たちキリスト者にとっての正しい置き場とはどこでしょうか。それは、正式にキリストの体である教会に連なることです。なぜなら、そこに自らを置くことによってのみ、キリスト者としての「あかり」の機能を十分に発揮できるからなのです。

上記の2点を明らかにされたイエス様は、「光」とされているキリスト者に対して、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」(16節a)るようにと命じておられます。キリスト者が自らを「輝かせ」ることの目的は唯ひとつ、「人々が・・・天におられるあなたがたの父をあがめるように」(16節)するためなのです。ここに私たちの判断の基準と行動の目的が示されているのです。

最後に考えてみましょう。私たちは、自らの誉れを求める者ではないでしょうか。そのために人々の注意を自らに向けようとしていないならば幸いです。また、世の人々のなかにあって、神の御名を汚す態度はとっていないでしょうか。暗闇から光に移された者としての強い自覚をもって、神をあがめることを知らないこの世において、“神の栄光のために輝く”者になろうではありませんか。

 
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