検見川聖書バプテスト教会
HOME教会案内メッセージギャラリーイベント全国の教会問い合わせ
  すべて疲れた人へ  

2007年4月15日(日) 夕拝説教要旨
説教者:浜田 献(神学生)

聖書箇所:マタイの福音書11章28〜30節

[28]すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 [29]わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 [30]わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

説教要旨

現代人といやし
かつて、ある著名な説教者は言いました。“安らぎのなさは、この世を特徴づける大きなしるしの一つである。どこを見ても私たちのまわりには、忙しさ、焦り、失敗、失望が立ち塞がっている”。この言葉は、現代の日本の現状を見つめるときに、特に響いてくる言葉ではないでしょうか。今、私たちの周りにいる人々は、また、私たち自身も、いやしを必要としています。

招いておられる方(28〜30節:わたしのところに来なさい)
マタイ11章28〜30節のみことばを読み進めていく上でまず心に留めたいのは“招いておられるお方がいらっしゃるという事実”です。「わたしのところに来なさい」と、招いておられる方とは、今からおよそ2000年前にこの地上で生きられたイエス・キリストです。この方のことを、ある人は、“革命家”と呼び、他のある人は“慈善事業家”とも呼んでいます。そして、ある人は、神のひとり子であり、人類の救い主(キリスト)であると呼んでいます。

招かれている対象(28節:すべて、疲れた人、重荷を負っている人は)
人は、重すぎる荷を背負わされることによって、いやしがたい疲れを覚えるに至ってしまいます。重荷と聞いた時、当時の人々は律法主義的戒律の数々を思い浮べました。現代を生きる私たちは何を思うのでしょうか。仕事や受験、人間関係、恐れ、不安、思い煩い・・・。聖書には、すべての人にこの上なく重くのしかかってくる荷が存在することが記されています。“罪(愛を持って私たち人間を造ってくださった神を神としないこと)”です。この罪こそが、すべての悪い影響力をもった重荷の根源であり、人を永遠の滅びに至らしめるのです。

イエス・キリストは、今まさに、罪の重荷を負って、神に、また、神のひとり子であられるイエス・キリストご自身に逆らって生きている「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」を、愛を持って招いておられます。どのような過去があろうと、また、今どのような問題を抱えていようと、その招きが制限されることはありません。

招きの先にあるいやし
(28〜30節/イザヤ書53章5節:わたしがあなたがたを休ませてあげます)

音楽やペット等、世の人々の提供するいやしも、時に疲れた心を和ませてくれる効果があるようです。しかし、そのいやしの効果はいつか消えてしまいます。一方、28節「わたしがあなたがたを休ませてあげます 」 と語られるイエス・キリストは、永遠にまで及ぶいやしを提供してくださるお方です。イザヤ53章5節「彼のうち傷によって、私たちはいやされた」。その招かれているみもとには真のいやしがあるのです。真のいやしとは、人が、最重量の荷“罪”の重荷の支配から開放され、神の赦しを頂いて、神の愛に帰ることです。

29〜30節、イエス・キリストの招きに応えた者には、新たなくびきが与えられます。そのくびきはイエス・キリストがともに負ってくださる負いやすいくびきです。イエス・キリストとともにくびきを負い、造り主であり、最高の理解者である神との永遠を生きるという、イエス・キリストを通していやされた者の新しい生活がそこにあります。

真のいやしへの招き
あなたに、真のいやしは実現しているでしょうか。真のいやしは、イエス・キリストの招きに応えて、イエス・キリストのことを自分の救い主として信じ受け入れるとき、誰にでもすぐに実現する恵みです。イエス・キリストの招きに応えて真のいやしを受けてください。

いやされた者としての喜びの生活への招き
今回お読みしましたイエス・キリストの招きの言葉には、キリスト者がどんなにか喜ばしい生活の内にあるのかが明示されています。常にイエス・キリストのみもとにおいて、いやされた者としての生活を喜ぶ者となりたい、そのように思います。

 
Copyright (C) Kemigawa Bible Baptist Church All Rights Reserved.