検見川聖書バプテスト教会
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  信仰による本当のいやし  

2007年4月15日(日) 礼拝説教要旨
説教者:小川 淳司(神学生)

聖書箇所:マルコの福音書5章25〜34節

[25]ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 [26]この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 [27]彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 [28]「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 [29]すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 [30]イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群集の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 [31]そこで弟子たちはイエスに言った。「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 [32]イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。[33]女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 [34]そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

説教要旨

私たちの日常生活の中で、苦しさを覚えること、わずらいとなること、問題となっていることは、程度の差はあれ、誰にでもあることと思います。様々な問題を抱える中で、多くの方たちが肉体的、精神的に疲れを覚え、そこから回復されるために何らかのいやしを求めています。この「いやし」という言葉の語源を辿ると、それは「回復」という意味の言葉に行き着くようです。「いやし」には肉体的、精神的な疲れからの回復という意味もありますが、聖書はそれをはるかに超えて「本当のいやし」があると教えています。本当のいやしとは何か、一人の女性の姿から見てまいります。

この女性は、12年もの間、「長血」という女性特有の重い病を患っていました。しかも、その病にかかった者は、旧約聖書の中で、宗教的な意味で汚れた者とされていたために、それは、重い病以上のものでした。望みのない治療の繰り返しによって、彼女は持ち物を全部使い果たして、しかも病は、かえって悪くなる一方でした。重い病と精神的な苦痛、そして全くの貧困という絶望の中で、彼女はいやしを切実に必要としていた、まさに「疲れた人」だったのです。

この女性は、イエス様こそ自分の病を治してくれるに違いないお方であると確信し、イエス様に近づきます。そっと、お着物にでもさわることができれば「きっと治る」と考えたからでした。群集の中に紛れて、人々の後ろから精一杯のばされたその手に、彼女のイエス様にすがる素朴な信仰を見ることができます。事実、彼女が信じた通り、その病は直ちにいやされます。「肉体的な病」という問題は解決さたのです。

注目すべきことは、イエス様が彼女をそのまま去らせなかったということです。イエス様は、求めてやまない必至の思いで触れたその手に気づいて下さるお方です。イエス様は言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを治したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」大切なことは、彼女が救われたのは「信仰による」ということです。それを引き出したのはイエス様に対する全幅の信頼、信仰です。また「治した」いう言葉は「救った」という意味をもっています。これは、健康の回復以上のことを意味します。以前の彼女との決定的な違いは、イエス様と個人的に出会い、イエス様と新しい関係に入れられたということなのです。

実は彼女の「本当のいやし」はイエス様との新しい関係に入ったことにあります。そして「治した」と皆の前で宣言されたことは、宗教的な汚れ、即ち神の前における汚れも取り除かれ、聖められたことをも意味します。すなわち、イエス様と何の関わりもなく生きていた人生から、イエス様との親しい関係に入れられ、そして神の前に聖い者とされたことにより、神との関係において回復されたことが、彼女にとっての「いやし」であり、回復なのです。女性は皆の前でその信仰を告白せざるを得ませんでした。それは、彼女が信仰によっていやされたこと、また汚れが聖められたことが、周囲の人々にも明らかになり、人との関係においても回復されるために必要であったのです。もしイエス様にすがる信仰があれば、イエス様は豊かに応えてくださるのです。本当のいやしは、イエス様と無関係の人生から、イエス様と共に生きる人生、神との関係が回復された人生にあるのです。

この女性は、病がいやされるという出来事がきっかけとなって、完全ないやしをいただきました。では、私たちにとっての神との関係の回復とは、どういう意味を持つのでしょうか。実は私たち人間はすべて、真実な神の前に「罪」という病に犯されている病人なのです。私たち人間は、この全宇宙を創造され、御支配なさっている唯一の神の前に、すべての人が、生まれながらにして、汚れた者であるということです。それを聖書は「罪」という言葉で記しています。

人間は、神の御意志に従って、その造られた方と共に、親しい関係の中で歩む者として造られたのです。しかし、最初の人間の不従順のために、人類に罪が入りました。「真の神を、神としない」者となりました。これが聖書の言うところの罪です。すべての人間に共通した問題は、この罪の問題です。罪人という病から回復され、神との関係が回復され、人間本来の姿に回復されること、これこそが、「本当のいやし」であり、すべての人間にどうしても必要ないやしなのです。このいやしはどのようにして得られるのでしょうか。神は罪深い人間を愛され、救いの道を用意してくださいました。神は御子イエス・キリストをお遣わしになりました。イエス様は罪のない完全なお方であるのに、罪人である私たちの代わりに十字架の上で死なれたのです。

聖書では、このイエス様を信じる者は、その罪が完全に赦される、と約束されています(ローマ3章23〜24節)。人は信仰によって救われ、神との平和が実現するのです。もし、復活され、今も生きておられるイエス様を信じるなら、新しいいのちが与えられ、真の心の平安、魂のやすらぎを得ます。これが、私たちに与えられているすばらしい約束です。女が、信仰によって本当のいやし、消えることのない救いをいただいたように、私たちも信仰によって、完全ないやし、消えることのない完全な救いが与えられるのです。

一人でも多くの方が、私たちを完全にいやし、救うことのおできになるイエス様を、ぜひ信じ受け入れて下さることを願います。全ての人は、本当のいやし、救いが必要な状態にあるのです。もし、イエス様を信じるなら、私たちは神の前に完全に聖い者とされ、神との関係が回復され、親しい関係に入れられるのです。神とともに生きる人生こそが、人の本来の生きる道です。ここにお集まりの皆さんが、私たちの魂の牧者である主イエス様を信じ、受け入れることによって、「本当のいやし」を得られることを心から願って止みません。(Iペテロ2章22〜25節)

 
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