検見川聖書バプテスト教会
HOME教会案内メッセージギャラリーイベント全国の教会問い合わせ
  私の杯はあふれています  

2007年4月1日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇23章5〜6節

[5]私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 [6]まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

説教要旨

前回の2〜4節において、この詩篇の作者であるダビデが生きるうえで、「乏しさを感じない」(1節b)ことの理由について学びました。それは、自分を羊だと自覚し、良き羊飼いである神にすべてを委ねきっているが故に、必要一切(憩い・回復・守り)が満たされているから、ということでした。

今回の5、6節では、これまでと異なり、神とダビデとの関係が「主人」と「客人」に例えられています。5節の冒頭でダビデは告白します。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。」(5a)。人生という旅路において大きく立ちはだかる「敵」(「困難」や「苦悩」)を前にして、主人(神)は客人(ダビデ)をかくまうだけでなく、祝宴を催してくださる、と言うのです。現実には有り得ないように思える話ですが、ダビデは自らの体験に基づいて、苦難の只中において与えられる主の特別な守りと、それに伴う平安を証言しているのです。そのような体験があるからこそ、「私の杯はあふれています。」(5節b)と、神に祝福されている状態を実感を込めて表現できるのです。どのような状況にあっても、人生という「杯」がダビデのように、神の祝福によって満たされている人は幸いではないでしょうか。

そして6節前半において、ダビデはこの祝福の状態をさらに別のことばで表現しています。「まことにいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。」(6節)。「いのちの日の限り」とは一生涯を意味します。「いつくしみ」は人の必要を満たすもの、「恵み」は罪を拭い去るものです。まさに人を人生において支え生かす祝福です。自らを神に明け渡さない者の人生には、苦悩と不安がつきまといます。しかし神に信頼する者には、このような祝福が生涯離れていかないのです。この事実をダビデは神を信頼することによって確信できたのです。

最後にダビデは心からの願いを述べます。「私はいつまでも主の家に住まいましょう。」(6節b)ダビデにとって、「主の家」(神の幕屋)は特別な場所でした。この場所は、神を羊飼いと仰ぐ者にとって、緊張や不安から解放される憩いの場であり、疲れたときに活力を回復する場であったのみか、すべての恐れを締め出す場でもあったのです。新約における私たちキリスト者にとっては、教会が神の家だと言われています(Iテモテ3章15節)が、そのような意味で、私たちにもダビデと同様の祝福が与えられていると言えるのです。ダビデのように神にある幸いを覚えさせられます。「私は一つのことを主に願った。私はいつもそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。それは、主が悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」(詩篇27篇4〜6節)

 
Copyright (C) Kemigawa Bible Baptist Church All Rights Reserved.