検見川聖書バプテスト教会
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  死のかげの谷を歩むとも  

2007年3月25日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇23章1〜4節

[1]主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 [2]主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 [3]主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 [4]たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

説教要旨

前回はなぜダビデが「主は私の羊飼い」(1節a)と告白するに至ったか、その背景についてお話しました。今回の1節後半からは、自分を「羊」だと自覚し、神を「羊飼い」と認めた者に備えられている幸いが告白されています。

ダビデは言います。「私は、乏しいことがありません。」(1節b)。本来、自分で自分を養うことのできない羊からは出てこないはずの言葉です。しかし、そんな羊であっても羊飼いに身を委ねたとき「人生を生きている上で何の不足も覚えない」と、確信をもって言い切れるのです。2節からにその理由が述べられています。

第一の理由は、「私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われ」(2節)るからです。羊が羊飼いに身を委ねることが、自分では決して見つけることのできない憩いの場(緊張や不安がない場所)に導かれることになるのを、かつて羊飼いであったダビデ自身知っていました。そこにはあるのは乏しさではなく、肉体的・精神的(霊的)必要を満たすための安らぎでありました。

第二の理由は、「私のたましいを生き返らせ」(3節a)てくださるからです。自分で自分を守る手段を持たない羊ですから傷つき弱ることがあります。しかし、そんな羊を優しく取り扱ってくれるのが羊飼いなのです。その羊飼いに身を委ね魂(心)の取り扱いを受けることによって、傷ついた心が回復していくのだと、ダビデは言うのです。回復が与えられた羊は、本来自分が歩むべき道(社会)に戻っていけるのです。真の羊飼いである神は、羊である私たちにとって魂の回復者であると言えます。ここには精神的な回復があります。

第三の理由は、「たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れ」(4節a)ないからです。「死の陰の谷」のような人生の厳しい経験を味わっている最中でも、そこに恐れがないという確信。自分を羊だと自覚する者の告白とは思えません。しかし、羊飼いによって憩いの場が与えられ、魂(心)が回復した羊は、心に不安が入り込む余地がないほどに精神的に強くされていくのです。このような羊は、羊飼いが自分を決して孤独にしないことを経験的に知っていますので、「あなたが私とともにおられますから」(4節b)告白できるのです。ここには、羊飼いに対する絶対的な信頼が感じ取れます。羊飼いと羊とにこのような信頼関係が成立していると、普段自分たちを敵から守るために用いられる「鞭」や「杖」が、仮に自分を懲らしめるため(訓練)に用いられたとしても、「それが私の慰め」(4節c)と言えるようになるのです。ここにも乏しさは見いだせません。

このようなことゆえに、神の羊であるダビデは心からの告白として「私は乏しいことがありません」と言うのです。この告白は、ダビデだけの特別な告白なのでしょうか。そうではありません。この告白は、神の羊とされている者全てに与えられている特権です。私たちもダビデのように、主の羊として確信をもって、「私は乏しいことがありません」と言える幸いを覚えたいと思います。

 
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