検見川聖書バプテスト教会
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  主は私の羊飼い  

2007年3月18日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇23章1節

主は私の羊飼い。

説教要旨

わずか六節という短い詩ですが、美しい神への信頼が歌われています。この詩篇の魅力についてある日本の神学者は次のように述べています。「キリスト者に愛誦される詩篇のうちでも、最もわれわれのたましいに触れ、これを生かし励まし力づけるものの一つである」と。

この詩篇の冒頭で詩人ダビデは告白します。「主は私の羊飼い」(1節a)。ここでダビデは神を羊飼いとして表しているのですが、同時に自分(ダビデ)を羊に例えているのです。すなわち、無力で迷いやすい羊のように、全てを羊飼いである神に依存しなければ生きていけない者であるという告白です。このような告白は、勇敢で偉大な人物と思われているダビデのイメージとは大分かけ離れているように思えます。それでは、ダビデはどのような経緯で自分を「羊」だと自覚するに至ったのでしょうか。この詩篇が生み出された背景に迫ってみましょう。

ダビデという人物は、もともとはベツレヘムの野で父の羊を飼う者(Iサムエル16章11節)でしたが、ひょんなことからペリシテ(敵国)の勇士ゴリアテを倒して、サウル王に召抱えられるようになりました(Iサムエル18章2節)。そして、勇敢な戦士として功績をあげ順調に出世していきましたが、その有能さゆえにサウルに妬まれて殺意を抱かれるに至り、国中に指名手配されてしまったのです(Iサムエル19章1節)。王の婿から指名手配人へ・・・まさに幸福の絶頂からの転落です。あたかも狼に追い掛け回されながらも自分を守る手段を持たない羊のようになってしまったのです。このような苦しみの経験というものは、人間の強さではなく、無力さを嫌というほどに痛感させるに至ります。

その後サウルは死に、ダビデはイスラエルの王となりました。しかし、家庭におけるダビデには常に“悲惨”の一語が付きまといました。妻からはさげすまれ(IIサムエル6章16節)、自分自身は取り返しのつかない罪を犯し(IIサムエル11章)、さらに子供のことでは次から次へと問題(兄弟殺し、レイプ、親子の確執と謀反)が起こっていったのです(IIサムエル12〜15章)。あたかも内輪揉めをしている羊の群れのようになってしまったのです。このような深い悩みの経験というものは、人間の賢さではなく、愚かさを痛感させるに至ります。

以上のような出来事が背景となって、「主は私の羊飼い」とダビデは告白しているのです。この告白は、実体験の伴わない観念的な告白ではなく、苦しみや悩みという人生の現実に直面し続けた人の実感のこもった告白であり、神の前における自分のありのままの姿を素直に表現した告白であったのです。

最後に考えてみましょう。人生における苦悩と悲惨を経験したダビデの姿は私たちの人生における姿と重なりはしないでしょうか。もし、そのような経験を通して、神の前における自分の姿が「羊」だと自覚できるならば幸いであります。そのような人は、真の羊飼いなる方を必ず見出すことになるからです。

 
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