検見川聖書バプテスト教会
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  世の光として生きる  

2007年2月25日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章14節

[14]あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

説教要旨

日頃尊敬している人から、最上級の褒め言葉をかけられたとしたら、あなただったらどのような反応をするでしょうか。一般的に三種類の受け止め方があると思います。

一つ目は「やっぱりそうか!自分でもそう思っていたよ。」と、浮かれてしまう受け止め方。 まわりから良く言われることを期待している人に見られます。二番目は、白々しくなり気持ちが引いてしまう受け止め方。相手の言葉に何か魂胆があると勘ぐってしまう人に見られます。三番目は、本来の自分を自覚する受け止め方。相手の言葉に戸惑いながらも、自分を過小評価していたことに気付き、自分が本来どんな存在であるかを自覚するようになった人に見られます。

イエス様は、この世にあって「塩」とされているキリスト者に対して、「あなたがたは世界の光です。」(14節a)と、さらに特別な性質を備えていることを自覚させる言葉をかけられました。「世界の光」・・・ごく平凡な人であった弟子たちにとっては、イエス様の言葉と自分の評価との間に大きなギャップを感じたと思います。しかも、自分自身に決して当てはめたことのない性質をすでに持っているとは、理解し難かったことでしょう。なぜイエス様は、弟子たちが「世界の光」であることの自覚を求められたのでしょうか。

その理由の前提となるのは、人の生きる世界が暗やみに包まれていることがあげられます。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(イザヤ8章22節)と預言者イザヤは語ります。そのような暗やみだからこそ、光を必要としているのです。このことが、キリスト者が「光」であることを自覚する一番の理由なのです。暗やみに生きている人は、「見えない」という特徴を備えています。「見える、見える」と言いながら、いのちの源である「神を神としてあがめ」(ローマ1章21節a)ることが出来ません。暗やみにいるのに、「見える」と思い込んでいるのです。ここに、人類の悲惨の原因が明らかにされているのです。真の神を認めない結果、「かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗く」(ローマ1章21節b)なったとパウロが指摘しているとおりです。

このような恐ろしい暗やみの世界に、私たちキリスト者が光を輝かさなければ、誰が輝かすのでしょう。「私は世の光です。」(ヨハネ8章12節)と言われた方の光を通してでなければ、人々は絶対に神を知ることがないばかりか、すべての悲惨の原因である罪に気付くことも出来ません。そのような意味で、私たちは「あなたがたは世界の光です。」との主のお言葉を真剣に受け止める必要があるのです。そして、「世界の光」とされていることを改めて自覚しようではありませんか!

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ、闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっている。しかしあなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(イザヤ60章1〜3節)

 
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