検見川聖書バプテスト教会
HOME教会案内メッセージギャラリーイベント全国の教会問い合わせ
  地の塩として生きる  

2007年2月18日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章13節

[13]あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

説教要旨

マタイ福音書5章から(〜7章まで)の「山上の説教」は、前回で「幸いについての教え」が終わりました(5章3〜12)。今回の13節から16節までは、神の国の民とされている人、すなわち神の国の民としての幸いを自分のものとしている人が、「塩」と「光」に例えられています。

まず、冒頭のことばを見ていきましょう。「あなたがたは地の塩です」(13節a)。イエス様は、この世における神の国の民を「塩」に例えています。塩には二つの働きがありますが、その一つは味をつける働きです。塩が調味料として食べ物に入れられ混ぜられて味をつけるように、キリスト者はこの世に味をつける働きをすると言うのです。この世の人々は、一見してわかるように人生を退屈でうんざりするものと感じています。ですから、満たされることのない欲望に突き動かされて、さまざまな娯楽や快楽を得ようと走り回っているのです。このような世の中にキリスト者の存在がスパイスとなって味をつけていく、と言うのです。

さらに、塩には腐敗を止めるという働きもあります。この世の現実を見ていくときに、悪と腐敗の例は枚挙にいとまがありません。あたかも腐る性質を持つ肉のようです。塩が自らの姿を消し、食べ物の中に浸透していくことによって腐敗を防ぐ働きをするように、キリスト者も見た目ではわからないほどに世の中に混ざり合うことによって、世の腐敗と堕落を防ぐことができる、と言うのです。

“食べ物に味をつけ、腐敗を防ぐ”塩の存在意義がここにあるように、キリスト者の存在意義もここにあるのではないでしょうか。そのような意味で、塩と同様キリスト者にも、他には決して見出せない特別な性質があると言えるのです。以上のことから、「塩」には“質を保つ”ことが不可欠なように、私たちキリスト者も“信仰の質(純粋性)を保つ”ことが不可欠なのです。イエス様もそのこと故に、「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。」(13節b)と心配されています。「塩が塩気を失う」とは、アイディンティティの喪失を意味します。同様に、私たちがキリスト者としての「塩け」を失ってしまったら、自分自身を見失うことになるのです。その結果は、はっきりしています。イエス様が言われているとおり、「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけ」(13節c)の不要物になってしまうのです。

最後に考えてみましょう。私たちは塩気を保った塩でしょうか。それとも味の無い塩でしょうか。もし、日々の生活のなかで、神様との正しい関係が保たれていないならば、黄色信号が点滅している状態だと言えるでしょう。イエス様の御心は、私たちが現に今塩であることを思い起こすことであり、自分の内に塩としての特性が備わっていることを自覚することなのです。そのことを自覚させるために、あえて厳しいことを言われているのです。甘さばかりが目立つ現代の社会で、塩気の効いた塩としての働きを担っていく者になろうではありませんか。

 
Copyright (C) Kemigawa Bible Baptist Church All Rights Reserved.