検見川聖書バプテスト教会
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  迫害を喜ぶ  

2007年2月11日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章11〜12節

[11]わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 [12]喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

説教要旨

前回は、「義のため」に受ける迫害は私たちが神の国の民であることのしるしとなり、主権者である神から受けた使命に忠実であることを明らかにする、ということをお話しました(10節)。今回の箇所は、前回の箇所の説明・展開です。イエス様は、弟子たちがやがて直面する「苦難」に際して、どのような姿勢で臨むべきかあらかじめ教えておられるのです。

まず、キリスト者が受ける苦難の内容が11節において具体的に述べられています。それは、キリストに忠実であることゆえに、「ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりする」(11節)ことです。周囲から強い圧迫を受けるので、身の置き場のない状況に立たされるのです。

このような身の置き場のない状況というものは、通常は否定的に受け止められます。さらに人を気落ちさせ、相手に対する怒りの思いを生じさせたりもします。おそらく、生まれながらの人間であれば、そのような感情を表に出さないだけで精一杯でしょう。しかし、イエス様はそのような苦難に直面したキリスト者に対して、心に決して同居しないはずの「喜び」という感情を持つように勧めるのです。「喜びなさい。喜びおどりなさい」(12節a)。しかも単に喜ぶだけでなく、躍り上がって喜ぶことが勧められているのです。何故そう言われるのでしょうか。

その第一の理由は、「天においてあなたがたの報いは大きい」(12節b)からです。天国で受けるべき「報い」の望み。これがキリストのために迫害される者に用意されている報酬です。パウロもそのような「報い」に望みを置いてこの世の生涯を全うした一人でした。弟子のテモテに対して、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Uテモテ4章7〜8節)と「報い」の望みを述べています。私たちもパウロのように、天国への思いによって現実の生活が支配されるならば、迫害を受ければ受けるほどに、天国で用意されている「報い」への期待感が高まり、それが抑えられない「喜び」へとつながっていくのです。

そして、もう一つの理由は、「あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害され」(12節c)たからです。迫害される者は旧約聖書に登場する信仰の勇者たちと同列に置かれる、という約束がここにあります。キリスト者として迫害されるということは、偉大な預言者達の仲間に加わることに他なりません。神の前に価値あることを経験するがゆえに心からの「喜び」が湧き起こってくるのです。

以上のような意味で、私たちも「迫害を喜ぶ」者ではないでしょうか。現実の苦難に関係なく、天国への思いで心が満たされることによって、現実の苦しみのただ中においても「喜ぶ」ことが出来るとは何と幸いでしょうか。しかも、心に巣食う“負の感情(怒り・復讐心)”を締め出すことができるとは感謝です。キリストにあって罪赦され、神の子とされている特権と祝福を更に覚えさせられます。

 
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