検見川聖書バプテスト教会
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  良きサマリヤ人  

2007年2月4日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書10章29〜37節

[29]しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 [30]イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 [31]たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 [32]同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 [33]ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 [34]近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 [35]次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 [36]この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 [37]彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

説教要旨

「良きサマリヤ人」のたとえは、イエス様のたとえの中でも有名なもののひとつです。人生の悲劇に見舞われた「ある人」(30節)を取り巻く3種類の隣人たちの態度を通してイエス様は、本当の隣人とは誰かについて教えているのです。

最初に登場するのは、“悪しき隣人”です。このたとえでは「強盗」(30節)です。この悪しき隣人は、平気で人に危害を加える人です。彼らはたまたま通りかかったその人の、「着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」(30節)のでした。人を騙したり、傷つけたり、奪ったりすることに対して何ら心が痛まない隣人たちが私たちの身近にもたくさんいることを覚えさせられます。このような隣人たちによって、どれだけの人が傷つき倒れていることでしょうか。

二番目に登場するのは、“見せかけの隣人”たちです。彼らが傷つき倒れている人に対してとった態度は、見過ごしにするということでした。「たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も・・・反対側を通り過ぎて行った。」(31、32節)「祭司」と「レビ人」は、当時の社会では最も憐れみ深い人として尊敬されていた人たちでした。彼らは、このような状況で何をすべきか頭ではわかっていたはずです。しかし実践できなかった。まさに見せかけだけの隣人です。見せかけの隣人とは、表面的には正しい人を装いますが、いざという時に平気で人を見捨てるのだということがわかります。このような隣人によっては、人は助けられないのです。

三番目に登場するのは、“良き隣人”です。この人は、傷つき倒れている人を見過ごしにはしませんでした。「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ・・・」(33節)。本来は、敵対関係にあるはずのユダヤ人とサマリヤ人でしたが、この人は普段全く付き合いをしない相手を見て、「かわいそうに思」(33節)ったのです。敵意や憎しみの思いなど忘れたかのように、この人はさらに憐れみの感情に突き動かされてある行動を起こしました。「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、・・・介抱してやった。」(34節)。人として当たり前のことですが、これが出来ずに、「反対側を通り過ぎて行った」見せかけの隣人たち(祭司やレビ人)と見事な対比を成しています。

以上から、イエス様が言われるところの本当の隣人とは、傷つき倒れている状態の人を見ても、決して見捨てないで犠牲を払ってでも助ける人だということがわかります。

最後に、本当の隣人についてもう一歩踏み込んで考えてみましょう。「良きサマリヤ人」から学ぶ本当の隣人の基本姿勢は、【自分で自分を助けることのできない人のいのちを生かすために、憐れみの心を持って行動を起こす】ということです。ですから、相手の必要にすべて応えることによって“もたれ合う関係”にならぬよう過度な関わりはしないのです。単なる良い人では終わらないのが本当の隣人だということなのです。私たちも、そのような意味で、私たちのために「よきサマリヤ人」となってくださったイエス・キリストに見習って生きる者になろうではありませんか。

 
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