検見川聖書バプテスト教会
HOME教会案内メッセージギャラリーイベント全国の教会問い合わせ
HOME > メッセージ > メッセージ バックナンバー(2007年) > 義のために迫害されている者の幸い
  義のために迫害されている者の幸い  

2007年1月28日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章10節

[10]義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

説教要旨

イエス様の教えられた八つの幸い。いよいよ結びのことばです。イエス・キリストは言われます。「義のために迫害されている者は幸いです。」なんと衝撃的で驚くべきことばでしょうか。世間のものさしで測れば、むしろ最大の不幸と思われることが幸福の特徴として挙げられているのです。よほどの変わり者でない限り、迫害されて幸せだという人はいないでしょう。実に理解し難いことのように思われます。果たしてイエス様はどのような意味で、「迫害されている者」が幸いだと言われているのでしょうか。

最初に、「迫害」についての聖書の見解を確認しましょう。パウロは弟子のテモテに、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(IIテモテ3章12節)と述べています。パウロは、「迫害」をあってはならないこととは捉えていませんでした。むしろ、キリスト者として周囲から理解されないこと、悪口を言われること、敵意を持たれることは何ら不思議なことではないと教えているのです。

ここで誤解してはならないことは、聖書は迫害に直面すること自体を奨励してはいないということです。ある人たちは人間的な欠点(自らの失敗・我が儘な性格)を批判されているのに、「自分は神に忠実だから非難されるのだ」と言うのです。確かに身に覚えがあって受けるようなもの、それは迫害でも何でもないのです。自分勝手な思い込みで迫害の意味を取り違えることは大きな誤解なのです。

第二に、この「迫害」には、「義のために」という条件が付けられていることに目を止めましょう。神の国の民として、王である神との関係を第一として生きていく時、またこの世と相容れない“神の国のものさし(価値基準)”を持って生きる時、周囲の人との間に何らかの摩擦が生じ、その結果衝突や圧迫が起こるのです。

しかし、このような状況はただ苦しむだけの無意味な結果では終わりません。なぜなら、このような状況こそが、「天の御国がその人のもの」になっていることの“しるし”となるからです。むしろ、神の国の民に与えられている特権として、肯定的に受け止めることができるのです。そのような意味で、「義のために迫害されている者」が幸いなのです。「義のため」の迫害に遭遇する私たちを、「幸い」だと神が評価し、その人に天からの祝福を与えてくださるからです。

最後に考えてみましょう。あなたはこの世に遣わされている者としてどのようなものさしを持って生きているでしょうか。「神の国」の民とされているのに、“世間のものさし”に自分を合わせて生きることはふさわしいことでしょうか。そのような状態は、神に喜ばれないばかりか、「神の国」の民としてこの世に遣わされていることの目的と意義を見失っている“しるし”となるのです。もしそうであるならば、すぐにそのような“しるし”を示すことを止め、「義のために迫害される」ことによって、「神の国」の民であることを証ししようではありませんか。

 
Copyright (C) Kemigawa Bible Baptist Church All Rights Reserved.