検見川聖書バプテスト教会
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  心のきよい者の幸い  

2007年1月14日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章8節

[8]心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

説教要旨

六つ目の幸いは、「心のきよい者」だとイエス様は言われます。「心のきよい者は幸いです。」(8節)。どちらかというと外面的な意味で用いられている「きよい」ということばが、「心」に限定されて使われている点が特徴です。

なぜ、イエス様は“内面のきよさ”を幸福の条件としているのでしょうか。その理由として、イエス様の時代のユダヤ人(特にパリサイ人)が“うわべのきよさ”に固執していたことが挙げられます。

マルコ福音書には、「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。」(7章3〜4節)と記されています。このような“うわべ重視”の態度によって、ユダヤ人は形式主義・律法主義に陥ったのみか、宗教的に汚れていると見なしていた取税人・罪人等を差別したのです(参照:マタイ9章11節)。

もう一つの理由として、人間の心が汚れの源だということが挙げられます。当時の人々が考えていたのとは正反対のことをイエス様ははっきり指摘しています。「外側から人にはいって、人を汚すものは何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7章16節)。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(マタイ15章19節)。このように、外側のきよさだけを装うパリサイ人たちをイエス様は、『白く塗った墓』のようだ!と厳しく批判しています(参照:マタイ23章25〜27節)。

それでは、どのようにしたら「心のきよい者」になれるのでしょうか。その絶対的な条件は、汚れを内側からきよめることです。内から始めてこそ、内も外もきよくなる。これこそ、キリストが明らかにしておられる“魂の法則”なのです。そして、それができる唯一のお方イエス・キリストを心から信じることです。神の御前に、自分の汚れた姿を正直に認め、告白することをイエス様の弟子のヨハネも勧めています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1章9節)。このことによってのみ汚れた「心」は完全にきよめられるのです。

このような結果として、人には混ざりもののない純粋な心が与えられ、「心のきよい者」とされるのです。神に受け入れて頂ける者とされるのです。そして「心」のきよい者の特権である「神を見る」(8節)という祝福に与るのです。見えない神が確かに生きて働いておられることを、“実感”として確信できる人は、何と幸いなことでしょうか。私たちも、さまざまな誘惑(偶像礼拝、情欲、不品行)に惑わされることなく、「心のきよい者」として、神の祝福を受ける者でありたいと思います。

「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」(詩篇24篇3〜6節)

 
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