検見川聖書バプテスト教会
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  五つのパンと二匹の魚  

2007年1月7日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書14章13〜21節

[13]イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群集がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。 [14]イエスは舟から上がられると、多くの群集を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。 [15]夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群集を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」 [16]しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」 [17]しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」 [18]すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」 [19]そしてイエスは、群集に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群集に配った。 [20]人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。 [21]食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

説教要旨

「女と子どもを除いて、男五千人ほど」(21節)の人々が空腹でいる状況を思い浮かべてください。しかも町から遠く離れた人里離れた場所で、日がまさに暮れようとしている時を。このような状況をイエス様に仕える12人の弟子たちはどのように受け止めたのでしょうか。

<弟子たちにとってのこの状況>
弟子たちにとってこの状況は、予想外の展開[弟子たちが休息を取る為に来た場所 → 群集が追いかけて来る → イエス様は群衆をあわれみ、病気を直される → 日が暮れ始める → 食物はない]の中で起こった事態でした。また、群衆の空腹を満たす手立てが全くないという意味で自らの手に余る事態でもあったのです。

<数字で現実を捉えた弟子たち>
手に余る事態に立たされた弟子たちでしたが、この状況を変えることを彼らなりに考え、ある提案をイエス様にしたのです。「弟子たちはイエスのところに来て言った。『群集を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。』(15節)。群衆が自分たちの責任で食物を用意すればいい、というのが彼らの提案でした。もちろん群衆のためを思ってのことでしたが、これまでイエス様と共に過ごしてきた者にしては、あまりに常識的すぎるものだったのです。信仰はどこに働いているのか?と思ってしまいます。

<イエス様の受け止め方と判断>
弟子たちの提案に対してイエス様は全く異なる判断を下されました。「しかし、イエスは言われた。『彼らが出かけて行く必要はありません。』」と、彼らの提案を真っ向から否定されたのみか、『あなたがただけで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。』と、弟子たちが食べ物を用意するようにと言われたのです。かなり厳しい要求です。イエス様のこの要求に対して弟子たちは、『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。』(17節)と責任を果たせない理由を述べました。この状況のなか唯一あった食物「五つのパンと二匹の魚」(17節)は、「・・・しかない」と言い切れるほどに僅かなものだったのです。悲観的な応答をする弟子たちに対して、『それをここに持ってきなさい』(18節)と、イエス様は命じられました。このような状況を通して、イエス様は弟子たちの心の奥深くにしまわれていた信仰を引き出そうとされたのです。

弟子たちにとっては、“これしかない”と判断したものでしたが、イエス様に差し出し、イエス様が「祝福」(19節)されると、“こんなにもある”に変えられたのです。「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。」(19、20節)。たといわずかな資源であっても、一たびイエス様のもとに委ねられるなら、それは多くの人に祝福をもたらすということが、ここでは教えられているのです。私たちも弟子たち同様、「五つのパンと二匹の魚」を主に差し出す者でありたいと思います。

 
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