検見川聖書バプテスト教会
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  神を待ち望む人々―マリヤ  

2006年12月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書1章26〜38節

[26]ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。 [27]この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。 [28]御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたがたとともにおられます。」 [29]しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 [30]すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 [31]ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 [32]その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 [33]彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」 [34]そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」 [35]御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 [36]ご覧なさい。あなたの親類のエルサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。 [37]神にとって不可能なことは一つもありません。」 [38]マリヤは言った。「ほんとうに、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

説教要旨

今日「待つ」という態度は関心を払うようなことではありません。現代は、利便性ばかりが追求されていますので、「待つ」こと =(イコール) 時間の無駄だと考えられているのです。多くの人々はわずかな時間であっても「待たされる」ことにイライラしてしまうのです。では、聖書に登場する人々は、「待つ」ことに対してどのような態度をとっているのでしょうか。今日は救い主の母とされたマリヤを通して、「神を待ち望む」ことの特徴と意義を考えてみたいと思います。

このマリヤという人物はどのような人だったのでしょうか。聖書には、「この処女は・・・ヨセフという人のいいなずけ」(27節)と紹介されています。年の頃は14、5歳でしょうか。人生経験のほとんどない年若い娘でしたが、彼女は現実だけを見て生きない人でした。そのことは、「ダビデの家系」(27節)に属するヨセフとの結婚に表れています。

世の中的に言えば、ヨセフは落ちぶれた家の人でした。国の支配者としての栄光は当の昔に過ぎ去っていたのです。しかしマリヤは、そのような現実に悲観することなく主の言葉を通してヨセフを見ていたのです。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が実を結ぶ。」(イザヤ11章4節)。マリヤは、神の約束の言葉に期待して待ち望むことができた人だったのです。

次にマリヤは、受け止めきれないような事態をも前向きに受け止める人でした。天使が突然現れるという事件に遭遇しても、「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」(29節)とあるように、とまどいつつも理性的に受け止めたのです。天使の告知は処女である自分が救い主となる男の子を産むという、人間の理解と経験をはるかに超える内容でしたが、それに対しても、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の子を知りませんのに。」(34節)と、拒絶したり不信仰に陥ったりすることなく、前向きに説明を求めたのです。マリヤは神が言われることに対しては、開かれた心で受け止めることができる人だったのです。

さらにマリヤは、自分を神に明け渡すことにおいて迷いのない人でした。マリヤの「ほんとうに、私は主のはしためです。」(38節)との告白には、神の御前における自分の立場をはっきりとわきまえていたことが示されています。自分は主人の意のままになる奴隷であると。自分の人生を自分で握りしめない、まことに心砕かれた人の姿ではないでしょうか。だからこそ、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)と、結果における神の最善に自分の身を委ねることができたのです。

マリヤの決断は、夫ヨセフに大恥をかかせ、自分の一生を棒に振るような決断でした。普通は自分に不利なこと、都合の悪いことには手を引いてしまうのに・・・。あなたは、目の前の現実に対して、マリヤのように「神を待ち望む」態度を取っておられるでしょうか。それともただイライラしているだけでしょうか。私たちは、信仰を持つ者として「神を待ち望む」ことの素晴らしさを味わう者でありたいと思います。

 
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