検見川聖書バプテスト教会
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  主に心を注ぎ出す者の幸い  

2006年11月26日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇142篇

[1]私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。 [2]私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。 [3] 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。 [4]私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。 [5]主よ。私はあなたに叫んで、言いました。「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。 [6]私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。 [7]私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。

説教要旨

自分の内面に閉じ込めていた感情を言い尽くすことを「カタルシス」と言います。もともとは、有毒な物を対外に排出させる下剤を意味していたギリシャ語「カタリクム」が語源です。このことばは、現代においては精神医学用語として使われています。精神療法の分野では、【表現療法】として、悩み、憎しみ、怒りなどを言葉(絵画)で表現することで、心の緊張を解くことが実際になされています。

詩篇142篇には、この詩の作者であるダビデの「カタルシス」がリアルに描写されています。この詩を記した時のダビデは、非常な窮地に追い込まれていました。王であるサウルから生命を狙われ(Iサムエル19章1節)、逃亡生活をしていたのです(同19章18節)。この時、ダビデが味わっていた厳しさは、「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」(Iサムエル19章3節)とのことばに十分過ぎるほど現されています。周りから自己の存在を否定され、精神的孤独を味わう状況というものは、その人の霊を「衰え果て」(3節)させていくのです。

もし私たちがダビデのような状況に立たされていたとしたら、どうなってしまうでしょうか。私だったら、「辛い、死にたい。神はなぜこのような目に私を遭わせるのか」など、現状をただ悲観するだけの言葉が出てくると思います。では、ダビデはどうだったでしょう。

1節の冒頭に、「私は主に向かい」とあるように、彼は主と向かい合ったのです。窮地に立たされていたダビデでしたが、「正しい者に向」(詩篇34篇15節)かい合っていて下さる主を見失ってはいませんでした。彼は主に対して、「声をあげて叫び」(1節)つつ、心の内にあった感情を一気に吐き出していきます。「私は御前に自分の嘆きを注ぎだし、私の苦しみを御前に言い表します。」(2節)。ダビデは、自分の存在を受け止めて下さる主に対して、心にある憂いを残らず打ち明けたのでした。さらに、3節後半から4節にかけては、自分がどれだけ孤独で、居場所がなく、生命が危険にさらされているかについても遠慮なく主に話しています。このように自分を受け止めてくれる存在に対して、「心を注ぎ」出すことによって、心の緊張が解けていくのです。

そして、主が自分の人生を熟知していてくださっていること、主に身を避けることの心強さを思い出していくのです。「あなたこそ、私の道を知っておられる方です。」(3節a)、「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。」(5節)。最後には、主にあって将来に希望を見出すに至ります。「あなたが私に良くしてくださるからです。」(7節)。主は必ず最善を与えてくださるとの確信に満ちたことばです。

主に心を注ぎ出す者は何と幸いでしょうか。人格者としての主が、苦しみの時にこそ私たちのそば近くにいて共にいてくださる。そして、内面的な苦しみに共感してくださる。その主と向き合っていくことを通して、心の回復が与えられていく。「主の素晴らしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(34章8節)。私たちも、主に心を注ぎ出す者でありたいと思います。

 
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