検見川聖書バプテスト教会
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  あわれみ深い者の幸い  

2006年11月19日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章7節

[7]あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

説教要旨

「幸いな人」の後半部分に入ります。これからの箇所は、前半部分とは異なり、【他者との関係】がテーマです。後半の最初は、他者に対する「あわれみ」について述べられています。実際に他者に示す場合には二種類の「あわれみ」があります。

一つ目は、“共感しないあわれみ”です。これは、相手にあわれみを示そうとしても、自分の立場や都合を中心にして相手を見てしまうので、人の内面部分にある痛みに気付かず、共感することができません。このような人は、人の痛みや弱さを理解できないままに、外側から相手を変えようと努力するのです。

二つ目は、“共感するあわれみ”です。このあわれみを持つ人は、悲惨な状況にいる人に対して、まず自分の気持ちを優先させずに、可能な限り相手の立場に身を置き、その問題を自分の事として考えようとするのです。相手の立場に立って、その気持ちを理解しようとする人は、こちらに当てはまります。

ここで考えてみてください。あなたが持っているのは、どちらの「あわれみ」なのか。そして、ご自分が悲惨な状況にいる場合には、どちらの「あわれみ」を求めるのか。一般的には、人に与える時は“共感しないあわれみ”を示し、自分が求めている時は、“共感するあわれみ”を求める傾向が強いのではないでしょうか。みなさんはどのようにお考えになりますか。

人となられた神である方、イエス・キリストは、私たち人間に対して“共感するあわれみ”を示してくださいました。まずその誕生において、キリストは、「神のあり方を捨てることができないとは考えないで・・・人間と同じようになられ」たのです(ピリピ2章6〜8節)。それがクリスマスの出来事が意味するところです。さらに、キリストの「あわれみ」の深さは、その公生涯においてもいかんなく発揮されました。病気や罪に悩む者と多くの時間を過ごされたキリストは、罪の悲惨に生きる人間の気持ちを自らの事として共感してくださったのです。その最後において、キリストは自ら犠牲をいとうことなく、私たちの悲惨の原因(罪)を解決するために、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。外側からではなく、内側から人を変えるのが、キリストが与えてくださる神のあわれみなのです。

このような意味で、自分に対する神のあわれみを経験した人は、窮地に陥っている自分を神が救い出してくださったのだから、他の人を助けたいという思いが湧き起こってくるのです。キリストによって示された、神のあわれみを経験したからこそ、人は「あわれみ深い者」とされるのです。このあわれみを他者に示すことによって、さらに「神のあわれみを見出す」(7節b・直訳)という幸いを頂くのです。聖書は、あわれみのない者には「あわれみのないさばき」が待っていると言っています(ヤコブ2章13節)。私たちも、神のあわれみによって救われた者として、相手の立場に立つ“共感するあわれみ”を持とうではありませんか!

 
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