検見川聖書バプテスト教会
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  見えぬものにこそ〜神の栄光のために〜  

2006年11月5日(日) 礼拝説教要旨
説教者:山宮 利忠 師

聖書箇所:Iコリント10章31節、詩篇116篇15節

[31]こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

[15]主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

説教要旨

聖徒(クリスチャン)には希望がある。その理由は人間のいのちは、死で終りではないからだ。教会における葬儀の度ごとに、主の聖徒の死は素晴らしいと思わされている。死は絶望ではない。別離の悲しみの中にも、希望があるからだ。私たちの人生は、下り坂ではなく、天に向って上っていく人生なのだ。栄光から栄光へと導かれる人生。葬儀は天への凱旋式である。

私は教会でのバプテスマの志願者に諮問でこう質問している。「今晩、あなたは召されても天国に行けますか?」答えは「行けると思います。」ではなく、「はい、行けます。」が正解だ。私たちは、人生の様々な準備をするが、死そのものに対する準備が一番すべきことだからだ。

罪と死の解決ができなかったら、本物の宗教ではない。イエス・キリストには、この解決がある。それは、永遠のいのちが与えられるという「死の解決」と、キリストによって罪赦されるという「罪の解決」。人はこの肉体が滅びたら、永遠に神と共に生きるか、永遠に滅びるかのどちらかだからだ。

だがイエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったので、罪は赦され、聖徒は永遠のいのちに生きることができる。キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり、三日目によみがえってくださった。そこには四つの意味が示されている。

第一に死に勝利したこと。第二に人は必ず死んだ後によみがえること。第三にキリストは今も生きておられること。第四に人に永遠のいのちを与える唯一の御方がキリストであるということである。この復活がなければ、キリスト教は無意味である(マタイ16章21節、17章20節、22節、27章63節)。キリストが捕まったときに逃げた弟子たちが、その後、勇気をもって命懸けで伝道したのは、この復活の主を見たからなのだ。多くのクリスチャンは死を恐れず、主を伝え続けた。この二つの解決こそが、永遠のいのちと永遠の滅びの別れ道なのである。

リバイバリストであったD.L.ムーディーは、「今日、私の戴冠式が行われる。」と死の直前に言い残した。彼は義の冠、いのちの冠を熱望していたのだ。救世軍の山室軍平は、「死はちょっと暗い階段を上って、すばらしく明るい2階に上がるようなものだ」と死について述べている。またある人は、「死は、隣の部屋にふすまを開けて入っていくようなものです。今の部屋は借りの住まいで、隣が本当の私の部屋だから。」と証言している。

死の問題を解決せずして、本当の希望はない。人生何が起こるのか分からないので、いつ死ぬかも分からない。ある人には突然やってくる。私たちはこの二つの解決を得、希望ある人生を送ろうではないか。

 
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