検見川聖書バプテスト教会
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  悲しむ者の幸い  

2006年10月22日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章4節

[4]悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

説教要旨

前回の「心の貧しい者」同様イエス・キリストは、人間の内面の状態を指して、「祝福されているなあ、悲しむ人は!」とおっしゃられています。ことばの通りイエス様は、悲しみを肯定しその意義を積極的に認めているのです。この世の人々が全く愚かだと考えていることを敢えて言っている点がユニークだと言えます。

最初に、この世の人々が捉える“悲しみ”について考えてみましょう。当然のことながら、“悲しみ”とは世の人々が避けようと努力しているものの一つです。多くの人はいかに苦しみや悲しみから逃れて、楽しく過ごすかということを人生のテーマにしています。悲しい出来事を通して、その人自身の人生に深い反省が与えられる場合には、悲しみを肯定する場合もありますが、基本的に人は喜ぶことを求め、悲しむことを嫌うのです。

それでは、イエス様が肯定されているのはどのような悲しみでしょうか。ここでイエス様が念頭に置いているのは、人生において直面するいわゆる“悲しみ”ではないということです。パウロがIIコリントで述べているように、私たちは救いに至る悔い改めを生じさせる「神の御心に添った悲しみ」(7章10節)と、死をもたらす「世の悲しみ」(同)を区別して考える必要があると言えます。

イエス様が「悲しむ者は幸いです」(4節a)と言われた“悲しみ”とは、第一に自分の罪に対する悲しみです。この悲しみは、人が自分の内面の状態と正面から向き合った結果自然に起こってくるものです。神と神のきよさに直面し、そして聖なる御言葉の光によって自分の心が照らされるとき、自分が徹底的に無力であり絶望的である事実に気付くのです。パウロが「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7章24節a)とした告白がまさにそうです。パウロが悲しんでいるのは、死すべき罪人としての自分です。同様に私たちも、このような叫びを身をもって知っているならば、「悲しむ者」だと言えるのです。

そして、第二にこの世の悪を嘆き悲しむことです。自分の罪に悲しむその人は、世界が不健全で不幸な状態にあることを見るのです。そして、それらがすべて罪のためであることを知り、そのことゆえに悲しみに至るのです。世の人々が避けようとする、否直視できない「悲しみ」の根本的原因を、キリスト者のみが正面から見ることができるのです。このことはキリスト者に与えられている特権ではないでしょうか。

4節後半には、悲しむことが幸いな理由が述べられています。「その人は慰められるからです」(4節b)。自分とこの世との罪深さに気付き、「悲しむ者」のみが、心から救い主を求め、聖霊なる神の導きによって唯一の救い主であるイエス・キリストを見出すことができるのです。その人には、神がイエス・キリストを通して“悲しみ”の根本的原因の解決という「慰め」が与えられます。この「慰め」は、この世が提示する表面的な「慰め」とは本質において全く異なります。真の神によって慰められるが故に、罪に「悲しむ者」が幸いだと言えるのです。

 
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