検見川聖書バプテスト教会
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  心の貧しい者の幸い  

2006年10月15日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章3節

[3]心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

説教要旨

この“山上の説教”の冒頭(3〜12節)では、八つの「幸いです」が繰り返されています。どの節も前半部分で現に幸せの事実が指摘され、後半はその理由が説明されています。ここでの注目点は、イエス様は民衆に対して、幸福になる方法や秘訣、また幸福の哲学を教えようとされてはいないということです。ただ現に幸福である事実を指摘し、知らせているだけなのです。そしてどれも、“心の状態”がどうであるかが幸福であることの論点となっているのです。

この話をされているイエス・キリストというお方は、当時の人々から注目されていただけでなく、現代においてもなお関心を払われている人物です。物議を醸したあの『ダ・ヴィンチ・コード(ダン・ブラウン著)』においても「イエス・キリストは恐るべき影響力を備えた歴史上の人物であり、おそらく古今東西を通して最も謎に満ち、霊的な力に富んだ指導者だった」と証言されているとおりです。このイエス・キリストが「おめでとう!あなたは、実に幸いだな」と感嘆の声をあげているその“幸い”についてみていきましょう。

一つ目の幸いは、「心の貧しい者」だとイエス様は言われます。「心の貧しい者は幸いです。」(3節)。経済的に欠けた状態を連想する「貧しい」ということばが、“心”に限定されて使われている点が特徴です。このことばの意味するところは、自分自身の内に何も頼るものがない状態、つまり“心の破産状態”のことなのです。

普段私たちが使う、「貧しい」ということばは、単に生活に余裕のない状態を指すことが多いと思います。例えば「服は着ているけれど、良い服を買うことができない」ときに使う貧しさです。その貧しさの度合いは、自分で働いて自分の必要を満たすことができる程度です。心の貧しさに置き換えるならば、まだ自分のうちに何かしらの期待できる部分があると思っている心です。ですから苦しくても神に全てを明け渡すことをしないのです。

しかし、イエス様が述べているところの貧しさとは、生存に必要な物質が不足しているほどの厳しい状態を意味します。世界には12億人もの人々が一日わずか1ドルで生活していると言われていますが、これらの人たちが「貧しい」と言う場合は、こちらに当てはまるのです。

心の貧しさに置き換えるならば、生きていくための資源が自分の中にまったく無いことを知って、必要な助けと力を神の前に見いだす心です。胸をたたきながら、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18章13節)と祈った取税人の姿と重なります。

なぜ、このような「心の貧しい者」が幸せなのでしょうか。その理由が後半に記されています。「天の御国はその人のものだからです」(3節)。このような心の貧しい経験をした人には、神のご支配が障害なしに及ぶというのです。つまりこの地上ですでに天の御国の素晴らしさを経験できるということなのです。これが「幸いです!」の理由です。あなたはどちらの「心の貧しさ」をお持ちでしょうか。

 
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