検見川聖書バプテスト教会
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  悪い知らせも恐くない  

2006年10月1日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇112篇

[1]ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。 [2]その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。 [3]繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。 [4]主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。 [5]しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。 [6]彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。 [7]その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。 [8]その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。 [9]彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。 [10]悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。

説教要旨

私たちには普段、電話やメール、手紙などによって様々な「知らせ」が届きます。そのような「知らせ」というものは、“良い”、“悪い”、“普通”のどれかに大別できるものです。普通の知らせであれば、特に何も感じることはないでしょう。また“願いが叶った”、“病気が癒された”などの「良い知らせ」は喜びと感謝をもって受け取ることができます。しかし、“病気だと診断された”、“問題を抱えて困っている”などの「悪い知らせ」の場合には、聞いた人の心に動揺を与え、言いようもない不安や心配を引き起こすのです。

私たちは、このような「悪い知らせ」が決して他人事ではないこと、それがいつか自分にも届くかもしれないという不安を覚えながら生活しているのはないでしょうか。出来ることならば、「悪い知らせ」そのものを聞きたくないと。聖書にも子供たちの不慮の死という「最悪の知らせ」を聞いた預言者エリ(Iサムエル4章11〜18節)や、義人ヨブ(ヨブ1章13〜19節)の話があります。

このような「悪い知らせ」は、人生という旅の途上において、旅人に襲いかかろうとして待ち構えている獰猛な野獣に例えることができます。前方からやってきて道を塞ぎ危害を加えようとするのです。このように安全が脅かされる時、たいていの人は身の危険を感じ、大きな恐れを覚えるのではないでしょうか。それでは、もしこのような「悪い知らせ」を聞いたとしても、“恐れない”と確信をもって言える人がいるとしたら、その人は何と幸福でしょうか。

「幸いなことよ」で始まる詩篇112篇は、「主を恐れ、その仰せを喜ぶ人」(1節)には、そのような神の祝福が与えられていると述べられています。「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(7節)。この箇所では、通常誰もが恐れを持つ「悪い知らせ」に対して、恐れない人の姿が描かれています。

それでは、どのようにしたら人はこのような境地に達することができるのでしょうか。ローマ時代のある哲学者達は、あらゆる事柄に対して禁欲的態度(自己訓練・修練)を取ることで、何事にも煩わされない、心を動揺させない“不動心”を身につけようと努力しました。

聖書が私たちに伝えようとしていることは、人間的な努力によって強い心を得るということではありません。むしろ、恐れの原因そのものに対して権威を持つ「主に信頼」(7節)することを条件としているのです。具体的に主への信頼とは、神の御子であるイエス・キリストが十字架において、恐れをもたらす悪の力(サタン)に対して勝利してくださった事実を信じることを意味します。この信仰に立つ時に、私たちは以下の確信に立つことができるのです。(1)キリストはすでに悪に勝利されたこと。(2)その脅威は無効にされていること。(3)信じる者に危害を加えることはないこと。

これこそが、神のみが与えることのできる「良き知らせ」すなわち“福音”なのです。それゆえに、「悪い知らせを恐れない」と言うことが可能となるのです。私たちもこの事実をよく確認し、主に信頼する者となりましょう。

 
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