検見川聖書バプテスト教会
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  心のものさしを変える用意がありますか  

2006年9月24日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書5章1〜2節

[1]この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。 [2]そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

説教要旨

私たち人間は人生を生きる上で、何かしらの“ものさし(何かを判断する基準となるもの)”を用いています。長さを計測する場合にはメートル法によって定められた“定規”があり、社会を考える際には国によって定められた“法律”があります。このような“ものさし”というものは私たちが普段意識する、しない、守る、守らないに関係なく、私たちの生活を強く規定しているのです。今日は、このような“ものさし”の中でも、私たちの価値観を形成し、倫理道徳の基準となっている“心のものさし”について考えてみたいと思います。

私たち日本人にとっての“心のものさし”とは何でしょうか。それは、世間すなわち“まわり”だと既に多くの人によって指摘されています。私たちは常に、“まわりから自分がどう見られているか”ということが気になり、それが価値判断の基準となっているのです。このような意識の根底には、神の目を意識する“罪の意識”より、人の目を意識する“恥の意識”があると言われています(参照:ルース・ベネディクト著『菊と刀』教養文庫)。このような意識というものは、世代に関係なく根強く残っているようにも思いますが、皆さんは如何でしょうか。

このような相対的な基準しか持っていない人々に対して、イエス・キリストは絶対的な基準を示す目的で、「山上の説教」を語られたのです。この箇所では説教を語られるに際してイエス様がとられた二つの態度に注目します。

一つ目は、これから語ることが重要で権威ある話であることを示すために「山に登」(1節)られたことです。“山の上で話す”ということは、当時の人々にとって、旧約聖書に記され、当時のユダヤ人の心と生活を強く規定していたあの“モーセの律法”が、山の上で与えられた事実と結びついたのです。

二つ目は、「すわって」(1節)とあるように、教師が弟子に教える場合の正式な姿勢をとられたことです。この姿勢は、これから語るメッセージが、プライベートな話ではなく、神の国の王としての公の話であることを表しているのです。それに気付いた弟子たちがみもとに集まることによって、イエス様は口を開き、彼らに教え」(2節)始められたのです。

教会に集う私たちは、主のことばの前に立たされる時、恥の意識に基づく“心のものさし”を堅く握り締めながら神に祈り求めている自分に気付かされるのではないでしょうか。みなさんは、そのことにどれだけ気付いているでしょうか。また自分の中でそれを変なければという必要をどれだけ覚えているでしょうか。

この主の教えは、この時代の聴衆である「彼ら」を超え、すべての時代の御言葉を聞く人たちに対して語られていることを忘れてはなりません。そのような意味で、これからの山上の説教を学ぶ私たちは、“心のものさし”を変える用意が出来ているかどうかを問われているのです。「この世と調子を合わせてはいけません。・・・すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

 
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