検見川聖書バプテスト教会
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  罪赦された者の幸い(2)  

2006年9月17日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇32篇

[1]幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 [2]幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 [3]私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。 [4]それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 [5]私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。 [6]それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。 [7]あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。 [8]わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。 [9]あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。 [10]悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。 [11]正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

説教要旨

“幸せ”というテーマを考えるときに、未解決の過去の自分(例;人間関係のわだかまり等)と、どう向き合うか、さらにそれをいかに解決し、現在どれだけ肯定できているかが大切なのではないでしょうか。仮に、思い出したくない過去の自分に蓋をして、向き合うこともせず、外面的な部分だけを取り繕えば幸せになれる(人からも幸せと見える)と考えるならば、それは非常に短絡的だと言えます。何故かと言うと、過ちや失敗を恥じるだけで、省みないならば“失敗から学ぶ”という基本的な姿勢を欠いてしまい、思考の硬直化を招くからです。このような傾向は、日本社会の体質にも見られるばかりか、私たちのうちにもあるものです。では先週取り上げたダビデはどうだったのか、32篇の前半を少し振り返りながら、続きを見ていきましょう。

当初ダビデは、事実を事実として認めないばかりか、都合の悪い事実を隠ぺい(外側を取り繕う行為)し、事なきを得ようとしたわけです。しかし、言語に絶する内面的な苦しみをもたらした罪を、預言者ナタンにはっきり指摘されたことによって、その罪を神の前に残らず知らせ、その結果罪の赦しを得たのでした。

そのような罪赦された経験によって、ダビデは神との絆が以前にも益して強められたようです。彼は神との親しい交わりに入れられた確信ゆえに「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に」(6節)と告白しています。さらに、神を拠り所とすることの平安と感謝を「まことに、大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」(6節後半、7節)と大胆に歌っています。このようにしてダビデの過去の問題は、解決されていったのでした。

8〜9節では、罪赦されたダビデが過去の自分を肯定している事実を確認できます。ここで彼は、なんと自分を教える立場に置いているのです。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。・・・あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。」(8節)。手荒く扱わなければ言うことを聞かない馬や愚かな騾馬(=神に対して強情と頑固を貫く人)にならないようにとの警告は、彼自身の苦い経験から発せられたことばです。過去の過ちの経験から十分過ぎるくらいに学んだからこそ、後に続く人のために自分の失敗を話し、そうであってはならないと忠告することができるのです。

最後にダビデは、この詩の読者に二つの選択を突きつけます。「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」(10節)。罪に固執し、悪者たちのように頑なな神を無視する生き方をして、苦悩の中に入り込んでいく道を選ぶのか。それとも、神に信頼し率直かつ真実な態度で自分のありのままを打ち明け、幸いに至る道を選ぶのか。私たちは同じ過ちを繰り返さないためにも、素直にダビデの忠告に倣う者でありたいと思います。

 
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