検見川聖書バプテスト教会
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  罪赦された者の幸い(1)  

2006年9月10日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇32篇

[1]幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 [2]幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 [3]私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。 [4]それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 [5]私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。 [6]それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。 [7]あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。 [8]わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。 [9]あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。 [10]悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。 [11]正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

説教要旨

この詩篇の背景には、過去においてイスラエルの王ダビデが犯してしまった取り返しのつかない事件(バテシェバとの姦通、ウリヤの殺害)があると言われています(IIサムエル11章参照)。ダビデ王はそのこと故に深い悩みと悲しみを経験しました。しかし、あることを通して“真の幸い”を得るに至ったのでした。

まず1〜2節において、ダビデは確信をもって“幸いな人”について証言します。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」ダビデは言います。“幸いな人とは、罪の問題を完全に解決した人なのだ”と。さらに、このような赦しを経験した人が「心に欺きのない人」(2節)なのだ、と。自分に対しても、神様に対しても嘘偽りのない正直な姿で立つことのできる人は幸いなのです。

このように証言するダビデでしたが、ここに至るまでには内面的に深い苦闘があったようです。彼は3〜4節で、罪赦される以前に持っていた感情について正直に告白しています。「私は黙っていたときには」(3節)。罪を犯したダビデは、最初その罪を隠蔽し、口をつぐむことを試みたようです。しかしその結果、心が平安に満たされるどころか反対の感情に満たされたのでした。「一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(3節)。ダビデはこの苦悩(後悔・罪責感)が、罪を告白しない者に対する神からの圧力であることを自覚して次のように告白しています。「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(4節)。

ダビデの生命の潤いが、彼の内なる悶えのために、乾きつくし、それはあたかも夏の日照りのように、荒涼としたものになってしまったというのです。このような深い苦しみにいるダビデのもとに、神から遣わされた預言者ナタンが訪れ、ずばり罪を指摘したのです(Uサムエル12章1〜9節)。

誰であっても、自分の罪を神の前に言い表すことには躊躇するはずです。しかし、このときのダビデには躊躇はありませんでした。「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』」。ダビデの堅い決意が表されている言葉です。彼が経験した深い悩み、苦しみは、何か気晴らしをすれば忘れられるものでも、涙を流しきってしまえば楽になるものでもなかったのです。自分の罪の解決は、人の側ではどんなに細工してもできない、神に赦して頂かなくてはならない。だから神に対して、思い切って自分のそのままを告白することができたのでした。

この心からの罪の告白に、神は即時的に答えられました。「すると、あなたは、私の罪のとがめを赦されました。」(5節)。罪人が心から悔い改めて罪の赦しを求める時、主は直ちに赦しを与えてくださる方なのです。私たちは、何か良心の呵責を憶えていることはないでしょうか。罪を犯しているのに神の前に告白せずに黙り続けることは何の解決にもなりません。ダビデのように、一切を神の前に告白するとき、そこに用意されている“罪赦された者の幸い”を経験できるのです。

 
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