検見川聖書バプテスト教会
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  水辺に植えられた木  

2006年8月27日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:詩篇1篇

[1]幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 [2]まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 [3]その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 [4]悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。 [5]それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。 [6]まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

説教要旨

“幸せになりたい!”これは誰でもが求めていることです。しかし“幸せとは何か?”ということになると、その答えは人によって様々です。多くの人は、外面的な条件(健康・職業・家庭・経済)を幸せの基準だと考えています。この条件を満たしていれば幸福、そうでなければ不幸という図式です。また、周囲との比較の中で、自分がそう見なすことで幸せだと思い込む人もいます。

あの人(の物)より「おしゃれ」、「立派」、「まし」等とことばで表現することで、差別化を図り、上下関係を作るのです。人はこのように他者との比較の中で幸福を感じたり、不幸になったりするのです。しかし、このような幸福観というものは、人々を幸せにするどころか、逆に人を縛り不幸にしてしまっているようにも思います。フランスの作家シャルドンヌは興味深い指摘をしています。「幸福の話をこれほど聞かされていなかったら、人間はもっと幸福だったろう。」

それでは、私たち人間を造られた創造主なる神は、“人間の幸せ”というものをどのように考えているのでしょうか。イギリスの説教家スポルジョンが「最高の幸せ、最も純粋な幸福を求める人は、この詩篇を読むべきだ」と表現した詩篇1篇を通して聖書が教える幸福について考えてみたいと思います。

まず1節で、“幸いな人”とは、悪の深みに入りゆかない人、2節では神に向って真っ直ぐな姿勢をとる人であると述べられています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。2節まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」外面的な条件については何も記されていません。聖書は、この世の価値基準に流されることなく、神の言葉に対してまっすぐに歩む人が、幸い(アシュレー)だと言うのです。

さらに3節では、“幸せな人”は「水路のそばに植わった木」に例えられています。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。」(3節)。幸いな人とは、移ろいやすい喜びや楽しみを土台にしているのではなく、深く神に連なるがゆえに、あたかも水辺の木が水路の水を十分に吸い上げるように、永遠のいのちの水を神より豊かに与えられるのです。だから、活力にも満ちています。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」(3節)。たとい人の目には卑しく空しく見えたとしても、神の目には尊く盛んである人、また砂漠の熱波のような患難にさいなまれたとしても、衰えることなく弾力を増す人こそが、真に活力のある人なのです。

そして、義の実を豊かに結びます。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5章22節)。外面的な条件や周囲との比較ではなく、このような実を結んでいる人こそが、真に幸いな人ではないでしょうか。

一方、神のことばに真っ直ぐに歩まない人(悪者)は、幸せが表面的でしかなく、しかも神のさばきの風が吹くと、さっと吹き飛んでしまう「もみがら(中身がない)」に例えられているのです。

さあ、あなたはどちらの幸せを望みますか?

 
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