検見川聖書バプテスト教会
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  与える交わり  

2006年8月20日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:コリント人への手紙第二8章1〜8節

[1]さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 [2]苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 [3]私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、 [4]聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 [5]そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。 [6]それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるように彼に勧めたのです。 [7] あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。 [8] こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

説教要旨

与えることよりも、奪うことが横行している世の中ですが、日野原重明氏は次のように述べています。「まず与えることから始めよう。富のある者は富を、才のある者は才を、時間のある者は時間を。しかしなんと言っても、人が人に与える最高のものは、心である。他者のための思いと行動に費やした時間、人とともにどれだけ時間を分け合ったかによって、真の人間としての証がなされる」。

日本的な“甘え”が根底にある“もたれあう交わり”ではなく、自律したクリスチャンによる“与える交わり”について聖書から考えてみましょう。

8章の冒頭でパウロは、エルサレム教会への献金(義援金)をコリントの教会に要請するにあたって、マケドニヤの兄姉たちの模範を挙げています。「さて兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)。まず、パウロが紹介した彼らの模範とは、状況に左右されない喜びを持っていたということでした。2節では、「苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても・・・その極度の貧しさに関わらず」と彼らの状況の厳しい様子が描写されています。彼らは、国家による搾取とクリスチャンに対する迫害とによって、大きな逆境の中にいたのでした。しかしそのような状況にあっても、主を喜ぶことを決して止めなかったのです。「満ち溢れる喜びは・・・」(2節)。この時の彼らを支えていたのは、神の愛を受け、イエス・キリストの贖いのゆえに罪赦されたことの喜びでした。さらに驚く彼らの模範は、他者を思いやるゆとりがあったことでした。「あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2節)。

財産の少なさや貧しさでさえも、彼らにとっては兄弟に救いを差し伸べる妨げにはならなかったのです。ここにキリスト教信仰の豊かさが表わされているように思います。現実的な状況の厳しさが内面(心)に影響を与えるのではなく、内面にある生きた信仰が外側の状況すら突き破ってしまう・・・マケドニヤの兄姉はそのような信仰によって生きていた人々だったのです。

6、7節でマケドニヤのクリスチャンについての五つの証言をパウロはしています。(1)「彼らは自ら進んで」−自発的であった。(2)「力に応じ、いや力以上にささげ」−献金額は彼らの力量以上。(3)「熱心に私たちに願った」−熱心さを示した。(4)「私たちの期待以上に」−パウロの期待していた以上だった。(5)「まず自分自身を主にささげ」−献金の奥に神への献身があった。

以上からマケドニヤの兄姉の豊かさは、物質的なものではなく、キリストの愛に根差した“心”であったと言うことができます。そのような意味で与える交わりとは、神がクリスチャンに与えてくださる信仰の豊かさを、互いに分け合うことなのです。私たちもマケドニヤの兄姉に倣う者となりたいと思います。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4章10節

 
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