検見川聖書バプテスト教会
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  いのちの保証  

2006年8月6日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:マタイの福音書16章25〜26節

[25]いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 [26]人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう。

説教要旨

今日は61年前、広島に原爆が投下された日です。その9日後の8月15日、日本は終戦を迎え、安全が保証されていない時代は終りを告げました。一方現代はどうかというと、これまで培われてきた安全が逆に脅かされている時代を迎えています。食の安全(BSE問題)、住まいの安全(耐震偽装)、家庭の安全(虐待)、地域の安全(殺人)、国家の安全(他国の脅威)が常に脅かされ続けています。それは、いのちの保証がなくなりつつある時代とは言えないでしょうか。

多くの人は安全を実感できないで、将来に対しての漠然とした不安を抱きながら生活しています。目に見える安全が商品として売られていて、その商品を手に入れることであたかも安全を手に入れたかのような錯角を覚えているようにも思えます。そのような中で人々は、何に価値を見出し、何に向って全力投球して生きているのでしょうか。

聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明氏は、その著書「いのちの言葉」(春秋社)の中で次のように述べています。『多くの人々は自分の財産や名声や地位を得るために全力投球をしている。それなのに、財産やお金よりも大切ないのちのために、時間と財産を提供しないのか。そうして安全に確保されたいのちを思いきり有効に使おうとしないのか。自分のいのちを自分で格調高く保つための勉強をめいめいがもっとしなければならない』

いのちとは確かに、わたしたちにとって大切なものです。それは生物が生きてゆく原動力であり、人間にとってかけがえのないものとして認識されています。が、しかし現実に私たちが、このいのちの価値を本当に知り、有効に用いているかということになると話は別のようです。日野原氏が指摘しているように、私たちが価値あるものと認め、人生の多くの時間をかけて全力投球しているものは、財産や人の評価(他人にどう見られているか)、社会的な立場であったりするわけです。しかしながら、それらに代表される人為的な安全装置(保険、貯蓄、人間関係)は、死の不安が宿るとき機能しなくなります。どんなに豊かな人生を生きていても死がすべてを打ち砕くのです。

聖書はいのちの無限の価値を強調しています。このいのちを失うことは損失で、全世界をもってしても買い戻すことのできないものと主張しているのです。それは次のように記されていることからも明らかです。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12章15節)

それでは一体どうしたら、何によって私たちのいのちは保証されるのでしょうか。その答えは聖書の中にあります。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17章3節)。キリストが全人類の死のとげである罪を滅ぼすために十字架に架かり死なれたこと、そして信じる者に真のいのちを与えるために復活されたと知る(信じる)ならば、この世の価値基準は逆転するのです。そしてキリストに従う道にのみ、絶対的ないのちの保証があることを知るのです。

幸福そうにみえても死に向かう人生もあれば、不幸そうにみえても永遠のいのちに向かう人生があります。死と直面するなかで残る希望こそが、真の希望なのです。あなたが人生においていのちの主キリストに出会うならば、現世においても、来世においても機能する絶対的ないのちの保証を頂くことができるのです。

 
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