検見川聖書バプテスト教会
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  キリストを共有する交わり  

2006年7月23日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ヨハネの手紙第一1章1〜4節

[1]初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 [2]−このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。− [3]私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 [4]私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

説教要旨

このヨハネの手紙の著者は、使徒ヨハネ。執筆年代は、イエス様が復活・昇天されてから、およそ60年が経過していたころでした。初代のクリスチャンが少なくなり、イエス様に直接会ったことのない2代目、3代目クリスチャンが増え始めていた時代です。信仰が次世代へ継承されてはいましたが、初代にあった情熱は影をひそめ、世の中に順応するクリスチャンが増え始めていた時代でもありました。このような状況にある人々に対して、人生の晩年を迎えていた老使徒ヨハネが【クリスチャン生活の健全な姿を提示】したのがこの手紙です。

ヨハネはこの序文の最初において三つの証言をしています。証言1)「初めからあったもの」(1節)“いのちのことば(キリスト)”は、誰もさかのぼることのできない昔から存在しており、空想の人物ではない。証言2)「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」(1節)“いのちのことば(キリスト)”は人間の感覚で確かめることのできた実在の人物である。ヨハネは人間の五感に訴える手法(聴覚→視覚→触覚の順)で説明しながら、“いのちのことば(キリスト)”が歴史的存在者として姿を現わしたことの事実を伝えているのです。証言3)「それを見たので・・・あかしをし・・・伝えます」自分はその目撃者である。ヨハネは、その方をナザレのイエスという歴史上の人物の中に見たのでした。

このヨハネの証言の直接的な目的が3節に記されています。「私たちと交わりを持つようになるため」(3節)。“ 交わり”とはキリスト教的なことばで、「何か共通のものを所有すること、分かちあうこと」を意味します。これは、神との交わりを基礎として、イエスをキリストと信じる者たちの関係の中で生じるものです。教会は、同じ信仰を持つ者たちが、“キリストにあるいのち”を共有し合う場でもあります。この“いのち”は、(1)キリストによって罪が取り除かれ(Tヨハネ3章5節)、(2)死からいのちに移され(3章14節)、(3)神によって生まれた『いのち』(5章1節)なのです。そして、この“交わり”は、究極的な目的に繋がっていくのです。

ヨハネ自身が願い、この手紙の読者に伝えようとしていた“交わり”の究極的な目的とは、「喜びが全きものとなること」(4節)でした。クリスチャンは、キリストにあるいのちを共有し合うことによって、この世の中では決して得ることのできない“満ち足りる喜び”を得ることが出来るのだとヨハネは言っているのです。神は私たちが、兄姉との関係の中で存在し、成長していくように定められました。もし、私たちが教会における“交わり”と個々の“喜び”とを無関係に考えているとしたら、それは残念なことです。ヨハネ自身は、この“交わり”が自分の喜びと霊的成長のために必要不可欠な要素であることをよく知っていたのです。

私たちも、神が“教会における交わり”のなかに「とこしえのいのちの祝福」(詩篇133篇1〜33節)を命じられていることを心にとめて、神の御心にかなった「交わり」をしていく者でありたいと思います。

 
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