検見川聖書バプテスト教会
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  使徒たちへの顕現  

2006年6月18日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書24章36〜43節

[36]これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。 [37]彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 [38]すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 [39]わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 [41]それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。 [42]それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、[43]イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

説教要旨

“信じられないけど嬉しい!”。このような感情は、絶対無理だと思ってあきらめていたことが叶った時、自然に出てくるものです。この感情を持つようになるまでには、(1)まず期待してない(できない)状況があります。次にその状況を見て(2)実現する(変わる・当る・受かる)はずがないという判断をします。自分の中での常識と経験に当てはめて、実現する可能性をあきらめ、無理だと思ってしまうのです。でも無意識的に(3)そうなったらいいなという思いがどこかにあるのです。通常は、ここで止まってしまうのですが、時としてミラクルが起こるのです。絶対に無理だと思っていたことが、不思議な方法で(4)実現することがあるのです。このような結果、嬉しすぎる心の思いがことばとなって“信じられないけど嬉しい!”という感情表現となるのです。

それでは、復活の主イエス様が現れた時の11人の使徒たちの場合を見てみましょう。まず使徒たちはこの時、(1)期待できない状況にいました。それはイエス様を十字架で失った悲しみとともに、イエス様のいない自分達の未来が閉ざされていたからです(ヨハネ20章19節)。彼らは、(2)復活なんてあるはずがないと勝手に決めつけていました。だから、復活のイエス様に会ったという報告を聞いても、「彼らは信じなかった」(ルカ24章:11節、マルコ16章:11節、13節)と一貫した態度で否定したのでした。彼らにとってイエス様の復活とは、いくら今見たと聞いても、そう簡単には信じられない程に理解を越えた出来事だったのです。しかし(3)そうなったらいいなという願いはどこかにあったようです。

彼らの中で、イエス様が復活したということが疑いようのない事実となる時が来ました。(4)実現。イエス様は、戸を閉じた家の中に、まざまざと見える姿で突然現れたのです(36節)。当然のごとく、すぐには受け止められないで取り乱す使徒たち(37節)。そこへ、イエス様の叱責のことばが飛びました。「どうして心に疑いを起こすのですか」(38節)→直訳すると『なぜ疑いがあなたがたの心の中に浮かんでくるのか』。

あくまで復活を疑う「思い」を持っている弟子たちに、イエス様は彼らの「心」のありようを問われたのです。イエス様の関心は、彼らが心において復活を信じることにありました。イエス様は「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしです。」(39節a)と、十字架で釘打ち込まれた痛々しい大きな釘の跡を見せられ「わたしにさわって、よくみなさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(39節b)と、さわって手ごたえのあるからだを示されたのです。

このような過程を経て使徒たちには、「嬉しさのあまり信じられない」(41節)という感情が湧きあがってきたのです。イエス様はなおも不思議がっている使徒たちのために、食事をするという具体的な出来事(42〜43節)をもって、復活の証拠を追加提示されました。

このようにして、イエス・キリストの復活は、使徒たちにとって現実のものとなりました。その後の使徒たちはどうなったのでしょうか。『使徒の働き』における彼らには、キリストが復活されたことについての迷いや疑いは、一切見られません。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒2章32節)と確信を持って告白する者へと変えられていったのです。

失敗や挫折、失望や恐れ、弱さといったあきらめの判断材料となるものが、キリストの復活の光に照らされるとき、新たな意味を持ち始めるということを、私たちも弟子たちのように良く理解し、信じていく者になりたいと思います。

 
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