検見川聖書バプテスト教会
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  エマオの途上  

2006年6月11日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書24章13〜35節

[13]ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 [14]そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 [15]話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 [16]しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 [17]イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか」。すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 [18]クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか」。 [19]イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 [20]それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 [21]しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 [22]また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 [23]イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 [24]それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです」。 [25]するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 [26]キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか」。 [27]それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 [28]彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 [29]それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 [30]彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 [31]それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 [32]そこで、ふたりは話し合った。「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」。 [33]すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 [34]「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。 [35]彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

説教要旨

絵画としても有名な「エマオの途上」は、一見弟子と師の和やかな語らいを感じさせる話です。しかし実際は、二人の弟子(一人はクレオパ)に対してあくまでシラを切り通される復活されたイエス様に、弟子達はいつ気付くのかという息をのむ展開の話なのです。“時”は、主イエス様の復活された日曜日の午後です。“場所”は、「いっさいの出来事」(14節)の舞台となったエルサレムから、11km(徒歩で4時間)離れたところにあるエマオ村への途上です。

二人の弟子が、その日の早朝に婦人達から報告のあった“からの墓”のなぞについて、あれやこれやと夢中になって話しているところに(13〜14節)、いつの間にか、ご本人であるイエス様が近づいて来たのです。「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(15節)。二人は、一緒になった方が、イエス様だと全くわからずに(16節)、ただの旅行者だと思い込み道連れとしました。

イエス様は、二人が話していた事が何かを当然知っていたわけですが、あえて知らないふりをして「その話は何のことですか」(17節)、「どんなことですか」(19節)と質問されたのです。二人の弟子は、エルサレム中がこの話題で持ちきりなのに、知らない人がいたということに驚きつつ、復活された当事者を目の前にして、得々とこの一週間に都で起こった最新情報を語り始めたのです。「ナザレのイエスのことです。・・・」(19節〜24節)。イエス様は、彼らの話を聞いて後、なお身分を隠しつつ、心の鈍い彼らのために聖書全体の中で御自分について書いてある事柄の「説き明かし」(27節)をされました。

彼らは、聖書が指し示すメシヤご自身から聖書の説き明かしを受けてもなお気付きませんでした。彼らが、やっとこの旅人の正体に気がついたのは、目的地のエマオに着き、彼らの家で一緒に食卓を囲んで、パンを裂く姿を見た時でした。「それで彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(30〜31節)彼らの“あっ”という感嘆の声が聞こえてきそうです。

この二人は、聖書の話を聞いていた間中「心はうちに燃えていた」(32節)ことに気付き、もはやじっとしていられないで、食事もせずに「すぐさま」(33節)エルサレムに戻りました。使徒達の隠れ家は大変な騒ぎでした(34節)。使徒たちがペテロの不思議な話を聞いていたのです。クレオパたちも話の輪に加わりました。彼らは、今度は復活の目撃者となって「彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。」(35節)のでした。

この話を通して、私たちに示されている霊的真理について考えてみましょう。ルカ24章は、イエス様の復活を受け止められないでいた人々が、どのような過程(プロセス)を経て復活を信じるに至ったかが主題です。前回の“からの墓の話”は、弟子の不信を買い、婦人たちを途方に暮れさせはしても、決して復活信仰を生み出しはしませんでした。今回の“エマオの途上”では、イエス様は、復活を受け止められないでいる二人の弟子と共に歩んでくださるお方として登場され、彼らの心の思いをよく聞かれた上で、旧約聖書に対する誤った理解が、信じられない原因であることを明らかにされました。そして、彼らが理解できるように丁寧に御言葉を説き明かされたのでした。旧約聖書はキリストの死と復活の意味を完全に理解する文脈を備えていること、また聖書全体の正しい理解は復活信仰の基礎となることを、私たちも改めて確信したいと思います。この確信こそが、私たちの心を燃えさせる油となって、キリストの復活を信じる信仰へとつながっていくのです。

IIテモテ3章15節「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

 
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