検見川聖書バプテスト教会
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  苦悩の現実を変える方  

2006年5月7日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ヨハネの福音書11章25〜26節

[25]イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 [26]また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

説教要旨

“生老病死”によって表される現実の苦悩。いつの時代にあってもこの現実は私たちの前に大きく立ちはだかっています。望まない事件や出来事が、人生には突如として起こるものです。それも自分自身のみならず家族にも。これは辛いものです。私たちはその苦悩の現実の前に成すすべもなく、ただ無力感を覚えるのです。ヨハネの福音書11章は、そのような状態にいる二人の姉妹の話です。

マルタ、マリヤの二人の姉妹は兄弟ラザロの死(17節)に直面し、悲嘆に暮れていました。そして、まわりにいる人々は慰めるだけ(19・31節)で、“死”に対して何も出来ないでいたのです。ラザロが墓に入れられて四日目という、姉妹たちが最も希望を失っている時に主イエスは来られたのです。主イエスの来訪の目的は、悲しみを慰めるためではなく、その現実を根本から変えてくださるためでした。

この苦悩の現実を解決するために、イエス様はマルタに向かって「わたしはよみがえりです。いのちです。」(25節)と言われました。普通の人は絶対言わないことをイエス様は言われるのです。C・S・ルイスは「単なる人間でありながら、このような言葉を語る人は偉大な道徳的教師ではないだろう。そのような人は精神病者であるか、地獄の悪魔かのどちらかであろう。」と述べています。

「よみがえり」とは、現実の問題の根源である「死」を無力化するという意味があります。誰もできないことです。しかし、イエス様は不可能を可能にする方なのです。万物を創造し、その生命を与えておられる方は、主イエスです。その方が、私たちの罪を十字架で処分し、三日目の復活を通して、死を無力化し、私たちが永遠の刑罰を受けることがないようにしてくださいました。だから、キリストを信じる者には、死の力も無力。また、問題も無力になるのです。(ローマ8章31節)

私たちが、この現実の問題の解決を得る方法はイエス様を信じることと関係があるのです。イエス様はマルタに「わたしを信じる者は・・・」とおっしゃいました。つまり【真のいのちを持っておられる方が、私たちの問題の根源である死を滅ぼすために、十字架に架かって死んだ後によみがえられたこと】を(1)事実として承認し、(2)自分のものとして受け入れ、(3)その事実とイエス様に全幅の信頼をおいて生きること。この「信じる」ということだけが条件なのです。その結果−死んでも生きるようになります。それは、キリストが私たちの中にお住まいになり、生かしてくださるからです。

主イエスはマルタに「このことを信じますか」と問われました。死という苛酷な現実の前に、希望を失いかけた彼女たちの姿は、私たちの姿と重ならないでしょうか?マルタへの問いかけは私たちへの問いかけなのです。イエス様は現実における最大の問題である死に打ち勝ってくださるために、死のとげである罪(Tコリント15章57節)を滅ぼしてくださいました。

イエス様の十字架と復活を信じることは、イエス様によって私たちを悩ます罪とその結果の死が無力になったことを信じることです。人間の目には、もはや終りだと見えるときに、驚くべき奇蹟が起こるのです。事実この直後、マルタ・マリヤの姉妹は兄弟ラザロの復活を目の当たりにしました。このように死人をもよみがえらすことがおできになる方は、私たちの現実の問題にも解決を与えることができるのです。

 
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