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  十字架のキリストをとりまく人々(3)  

2006年4月30日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書23章47〜49節

[47]この出来事を見た百人体調は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。 [48] また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。 [49]しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

説教要旨

イエス・キリストの死を通して周囲を取り巻く人々の態度に少しずつ変化が起こり始めました。百人隊長、群集たち、そしてガリラヤの女たちです。主イエスが生前「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12章32節)との預言が成就し始めました。

第一に、無関心な百人隊長(47節)。この百人隊長は、主イエスの十字架刑の執行の責任者として、この出来事の一部始終を客観的な立場から克明に見届けた人物でした。彼にとっては見慣れた処刑場面でしたが、段々と目の前にいる一人の囚人に心を奪われるようになっていきました。

まず、とりなしの祈り「父よ、彼らをお赦しください。・・・」(34節)に耳を疑い、また苦痛を辛抱強く我慢する姿や敵意ある周りの人々に対しても穏やかであられたことに目を見張り、さらに突然の暗闇や地震などの天よりのしるしに驚嘆し、最後には十字架刑に処せられた囚人とは思えない満足な死に様に、彼の軍人らしい冷淡さがずたずたに引き裂かれ、主イエスの姿に神を見たのでした。

そして自分が見て感じたことを抑えきれないで「ほんとうに、この方は正しい方であった。(マタイ、マルコでは「神の子」)」と、主イエスが自分の罪のために死んだのではないことを、ことばをもって告白したのでした。およそ十字架刑執行の責任者が言うべきことばではありませんでしたが、主イエスの死は、このような無関心な人の心をも捉えてご自身へと引き寄せ始めたのです。

第二に、興味本位に集まっていた群集たち(48節)主イエスを死刑にすることに賛成の態度をとった彼らでしたから、本来なら主イエスの死によって満足を得るはずでした。しかしその彼らが「胸をたたいて悲しみながら帰った」とあります。“胸をたたく”とは、この当時の人にとって、悲しみと悔い改めの仕草(ルカ18章13節参照)です。罪のない人を十字架につけて殺してしまったという事実に、彼らは自分自身のうちにある罪に悲しむようになったのです。そして彼らの罪に悲しむ思いはこの場限りのものでは終わらず、50日後のペンテコステの日、ペテロの説教によってはっきり罪を示され、多くの人々がイエスの十字架を自分たちの責任と自覚し福音を受け入れるに至ったのです。(使徒2章23・36・37節)

第三に、主イエスの働きの初期から時間と財産をもって主に仕えていた婦人たちです。この婦人たちは「遠く離れて立っていた」(49節)と、何となく主イエスとこの婦人たちとの距離の遠さが強調されているように思えます。この微妙な距離感は、主イエスの死によって、この婦人たちが主イエスに対して抱いていた人間的期待が無残にも消え去ったことにあると考えられます。しかし、この婦人たちは、主イエスに対しての信頼を失わせない真実を、主イエスの十字架の死を通して見たのではないでしょうか。ですから、最後まで十字架から離れなかったのです。

この人々を、主イエスはその死を通して、ご自身へと引き寄せ始めました。そもそも旧約聖書では、動物の犠牲を携えた祭司以外の人で神に近づく者は生きていられませんでした(民数記18章7節)。そのような私たちをご自身に近づかせるために、神は人となってまず私たちに近づいてくださったのです。そして、最も愚かに見える姿を通してご自身を明らかに示されたのです。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」エペソ2章18節。(参照:エペソ3章12節、ヘブル7章19節、11章6節)

 
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