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  十字架のキリストをとりまく人々(2)  

2006年4月9日(日) 礼拝説教要旨
説教者:高田 厚 師

聖書箇所:ルカの福音書23章40〜43節

[40]ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 [41] われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 [42]そして言った。 イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 [43]イエスは、彼に言われた。「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

説教要旨

十字架上のイエス・キリストをとりまいていた人々。最初に登場した人々(兵士・指導者・民衆)は、この出来事を目の前で見ていたにも関わらず、この世の欲によって心の目が閉ざされ、何も悟ることが出来ないでいました。

しかし、そのような中で、あきらかに別の態度をとった人がいたことを著者ルカは記しております。その人物は、主イエスの隣にあって同じく十字架に架かり、死に瀕していた男でした。名は記されておらず、ただ“強盗(マタイ福音書)”、“犯罪人(ルカ福音書)”としてのみ登場しています。過去において何かしらの重大な犯罪に手を染めたことが原因で、捕えられ、死刑に処せられていたのでした。

そのような男でしたが、最初から主イエスに対して、良い態度をとったのではなかったようです。「強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27章44節)とあるように、まわりにいるほとんどの人々が、主イエスに対して呪いやあざけりのことばを吐いているなかで、この男も周囲の雰囲気に流されて、しばらく同じようにしていたのです。

しかし、ある時点から変わり始めました。十字架上の主イエスのふるまい(この男の回心は、主イエスのことばによるのではなかったことに注目!)を見ている中で、主イエスの内面からほとばしりでる清らかな光(人間の限界をはるかに超えた愛の姿)に心照らされて自分の内面にある罪深さが見えてきたのです。

「われわれは、自分のしたことの報いを受けている」(41節a)いま自分がこうなってしまっているのは、親兄弟や他人、世の中のせいではなく、自分の罪ゆえの正当な結果であることを素直に認め【悔い改め】た!のでした。この男は続けて言います。「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(41節b)人々に冒涜されている主イエスに対して、この男はあたかも激しい勢いの流れの真ん中に突き立つ岩のように、主イエスの無罪(主イエスが自分の罪のために、十字架に架かっておられるのではない事実)を宣言しました。

そのように言いながらも、この男は死が間近に迫っていたこと、自分には未来も人生をやりなおす機会も無いことがわかっていました。しかしそれでもなお、自分の内面に起こった変化について、主イエスに知ってもらいたい思いで、42節のことばを言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには私を思いだしてください」(42節)。この男の主イエスに対する知識と理解は十分ではありませんでしたが、主イエスが来世において権威を持っておられる方だと信じたこと【信仰】は確かです。死という絶対的孤独と絶望の時にあって、死の力を打ち破る愛の方を救い主として仰いだのです。死にかかっている男が、死にかかっている人に憶えていてくれと頼む。何とも不思議な会話ではありましたが、主イエスの答えはすみやかで、また確実でした。

43節「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」この男には、いのちの主権者なるお方から来世でのいのちを保証する“いのちの保障のことば”が与えられたのでした。結論として、主イエスの救いが及ぶ範囲には限界がないこと、また神が私達に対して求める基準は、人間の側にあるもの(知識・理解・能力・行い・功績)ではなく、キリストの愛を受け入れた“信仰”であるということの実例が、この箇所において示されているのです。

私たちはこのことを忘れることなく、神の愛と赦しのなかに生かされていることを感謝しつつ歩もうではありませんか。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Uコリント5章21節)

 
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